二 孤独死老人
賭の虫
二 孤独死老人
翌朝、隆夫布団からはい出、部屋入り口柱伝ってじりじり立ちあがる。激しいめまい。著しい体力衰え感じる。
「あかん――。こら、あかん、ほんまに往てまうわ」
隆夫ズボンポケット小銭いくつかあること確かめ、倒れ込まぬよう柱へばりつき部屋出、壁伝いじりっじりっ玄関のほう歩いていった。右足引きずりながら。
アパートは木造二階建て、まん中を貫く幅二メートルの廊下の両側に三畳個室がずらりと並んでいた。隆夫は一階奥の部屋に住んでいた。
目腫れあがり何日も同じ服着っぱなし異臭放つ隆夫今にも倒れそう廊下歩く。アパート住人通りすがり隆夫見る誰ひとり声かける者おらず。
隆夫自身も、彼らに助けを求めたところで、なにもしてくれないことはわかっている。アパートでは今までに、ふたりの独居老人が誰にも救われないまま亡くなった。ひとりは脳卒中で、もうひとりは餓死しているのが一か月経ってから発見された。
このアパートにも管理人はいる。この町にも民生委員や老人の話し相手になってくれる人はいる。隆夫も生活保護を受けはじめたころは、区役所から派遣された担当者が、あれやこれやと構ってくれたこともあった。しかし、続けて面倒みたり心配したりしてくれるのは、普通に質素に生活している老人だけ。隆夫のように、生活保護の給付金は二、三日で使い果たし、あとは人に会えば金をせびり、金をもらえないと知るや悪態をつく男は、結局誰にも構ってもらえない。民生委員やボランティアも、会うたびに金の無心しかしない健康な老人には、声もかけなくなるのは当然だった。隆夫自身にもそのことはわかっている。おそらく、隆夫のことは適当な所見をでっちあげた書類が作られ、役所に報告されるのだろう。
アパートの廊下ですれ違う住人は、隆夫を冷ややかな目で見ながら「いつものこっちゃ」と何ら心配することなく通りすぎていくのだった。
「なにが人情の町や」
隆夫つぶやきながら廊下よろけないよう進む。
大阪ミナミのまた少し南、この町もかつては若い日雇い労働者であふれ活気のある時期があった。今は労働者たちも老い、町自体も老いていた。
ほこりっぽい路上に昼間から酒の匂いが漂い、スポーツ新聞や大衆向け雑誌やらが散らばり、売れもしないヌードカレンダーやエロビデオが道ばたに並べられ、その横で労働者が古着をあさっている町。犯罪者がもぐり込み、日雇い労働者のわずかな収入を搾取する暴力団が幅を利かせ、わずかな儲けだけで細々と生活しているくせにパチプロだと自慢する輩が町を闊歩する。競輪競艇のノミ屋がいくつもあるこの町。
それでもスラムだと認めたくないこの町の住人は、ことあるごとに人情の町だと自慢する。ほかの町の人たちも、ほめる材料のないこの町を人情豊かな町だと持ちあげ、このことは演歌にもなってこの町に住む人々の慰めになっていた。しかしそれが本当の慰めだということは、町の住人にもわかっていることだった。
「なにが人情の町や。あほぬかせ」
アパートの玄関には住民が使える唯一の公衆電話がある。その電話は、いつも住人の誰かが使っていた。隆夫がやっとの思いで電話機のそばにたどり着いたときも、髪を頭の上に束ね、そり残しのある眉毛の上にもう一度眉毛を描いた中年女が電話していたところだった。分厚い唇に真っ赤な口紅を塗りたくった女は、タンクトップから陽に焼けた太い腕を出し、足首をしぼったクリーム色のパンツをはいていた。大きな声で、きゃあきゃあと品のない笑い声をあげて電話している。電話の向こうの、おそらく同年代だろう女友達の声も、きゃんきゃんと響いていた。
隆夫はよろっと女の後ろに立って順番を待った。女は振り向いて隆夫をにらみつけた。にらみつけたあと、変形した左目を見てぎょっと驚いた顔になった。が、それでも電話を止めようとせず、チラチラ横目で隆夫を見ながら、今度はひそひそと話しだした。
「今なあ、変なおっさん、ここにおんねん。誰かに殴られたんやと思うねんけど、目、めちゃめちゃ腫れとんねん。ううん、ちゃうちゃう。かわいそうやのうて気色悪いねんて。今、そばにおんねんけど、えらい臭っさいしなあ……」
女は顔をしかめ話を続けていたが、ついに耐えられなくなって電話を切り、鼻を押さえ隆夫をにらみつけて去っていった。
隆夫は、ズボンのポケットから十円玉を取りだし硬貨入れに入れた。
隆夫自身は携帯電話を持たないが携帯電話は便利なもの。直接息子の正一に連絡できるからだ。固定電話しかなかったころは、電話する前に「喜美子さんや真吾が出てきよりませんように」と祈っていた。
喜美子というのは息子の嫁、息子夫婦には八つになる真吾がいた。隆夫が息子に金を求めるときは、嫁に気づかれないように一応は気を遣っている。喜美子もうすうすは感じているだろうが、やはり嫁のいる前で金をねだることはできない。「これは、谷岡家の問題やからなあ」。金をねだる側の隆夫が偉そうに言える話ではないが、隆夫は隆夫なりに嫁に対する遠慮があった。
ともかく今は、正一の携帯電話に直接連絡すれば事は済む。隆夫は空で覚えている息子の携帯電話の番号をまわした。
トルルルル、トルルルルと呼び出し音が鳴ったあと、受話器が取られる音が返ってきた。
隆夫は「わいや」と言いかけた。が、受話器の向こうでは応答の声が続いていた。
「この電話はお受けできません。番号通知しておかけ直しください」
「まさか……」
十日ほど前の大げんかのあと、息子が言い残した言葉を隆夫は思い出した。
「二度と電話かけてくんな。かけてきたって取れへんからな」
今までにも息子とは数え切れないほど口げんかしてきたが、連絡できなくなったということはない。
それが今回は違う。息子は本気で怒っている――。
「正一のやつ、わいからの電話、ほんまに、取られへんようにしてしまいよった……」
隆夫は受話器に耳を当てたままぼう然と立ちつくした。受話器から時間切れ警告音が鳴り、電話は切れた。
「あかん――。えらいこっちゃ」
隆夫はついに本気で危機だと認識した。今までと確実に状況が違う。
「姉さんに助けてもらうか――。あかんあかん、電話だけで助けてくれるわけあれへん。兄さんはどや。年金取ったばっかりで金あるわけあれへん――。ほんま、どないもならんか――」
十二人兄弟の八番目に生まれた隆夫は、今まで兄弟の誰からも金をせびっていた。泣いて脅してすかして、息子を出しにし孫を出しにし、してもいない仕事で失敗しただの泥棒に入られただのと白々しい嘘をつき、出勤前のあわただしい時間や家族みんなが寝入っている深夜に不意打ちをかけ、ときには勤めている会社まで押しかけて大声をあげ、一、二万円渡して追い返そうとしたときにはすでに隆夫の思うつぼで、そんな少額ではだめだと断って会社の上司や子どもの学校にまで頼みに行く素振りを見せ、家の恥を外にさらしてはならないという心理につけ込み、三、四万円と提示するのをなおも拒否し、ねばりにねばって最後には狙った額を手に入れ続けてきたのだった。
こんな手段で金をせびり続けてきた隆夫だが、兄弟のうちせびりやすい者とそうでない者との区別はついていた。もともと苦しい生活をしている兄弟や、気が強く少々の脅しにも屈しない兄弟には、次第に近づかなくなっていた。隆夫が最も多く金額をせびってきたのは姉の和子だった。若いころ美人で聡明だった和子は、地元では名の知れた資産家に嫁ぎ、自らも大企業に就職して高給を得、見た目にも余裕のある暮らしをしていた。隆夫が和子からせびり落とした金額は、ほかの兄弟から引き出した金額と比べるとひと桁は多かった。そんな和子も今は七十歳を越えた。勤めていた会社はとっくに退職し、二年前に夫をガンで亡くして、たったひとりでひっそりと暮らしていた。隆夫は今も和子に金をねだることがある。しかしそれは、直接四国の町に住む和子に会ってこそできることで、昔のように電話口でねばりさえすれば金を振り込んでくれる、ということはなくなっていた。ましてやほかの兄弟は、今まで迷惑の限りをつくしてきた隆夫を、電話一本で助けてくれる人などいるわけがなかった。隆夫が、今の追い込まれた窮地をどれほど訴えても、信じてもらえないことはわかっていた。
隆夫落胆よろよろ壁伝い廊下戻っていった。二十メートル先部屋とてつもなく遠い。
廊下の向こうから男がやってきた。ポロシャツの上にポケットだらけの紺のベストを着て、洗濯したての灰色のニッカボッカーズをはいた若い男。陽焼けした精悍な顔つきのその男は地下足袋を手に、軽い足取りで廊下を歩いていた。
「せや、今はこの男の世話になろう」
「赤の他人が、わいの面倒みてくれるはずあれへん。なにが人情の町や」とつぶやいていたさっきとは違う。今は本当の窮地に追い込まれている。今、助けを求めないと本当に死んでしまうかもしれない。
男が近づいてきたとき、隆夫は、男の前に倒れ込んで、男を見あげ声を絞り出した。
「ああ、金、かね、貸して……」
血管が浮き出て真っ赤になった右目が男に視線を送った。
「なっ、なんや、このおっさん。気色悪いやっちゃ。うっ、臭さっ」
男は顔をしかめ鼻を押さえた。息を止めて隆夫をまたぎ、足早に玄関のほうに駆けていった。
「ほれみい。なにが人情の町や」
廊下倒れ込む隆夫すでに立ちあがる体力残らず。腹這い左ひざ立てようやく四つん這い、右足引きずり部屋向かい這っていった。
―――――
三十年くらい前、同じようなことがあった。そのころこの町に、麻痺に冒された細い片腕を肩からだらんと垂らして、あやつり人形のように歩く小柄でやせた老人がいた。真っ白な髪を後ろにのばし真っ白な長いあごひげをたくわえていた老人は、その風貌から町では誰にも知られていた。老人はいつも、町をひょこひょこと歩き、通りがかりの人々から五十円、百円と金をめぐんでもらっていた。隆夫も、気が向いたときに五十円玉を握らせ「おっさん、餅でも食えや」と優越感にひたって言ったものだった。
老人にとって生活の糧である金をくれる人を覚えていたのも当然だった。何度となく小銭を渡しているうちに、老人も隆夫の姿を見ると寄ってくるようになった。
秋のある日のこと、隆夫はいつものように善良ぶって、老人に五十円玉を握らせた。老人は、おそらく冬を越す唯一の防寒着だろう背中に黒文字で英語が書かれた薄手のジャンパーを着ていた。隆夫は、老人が頭を下げて礼を言うだろう、と思っていた。ところが老人は、大して喜びもせずに、コインをジャンパーのポケットに入れてから、これでは足らないと追加を要求したのだった。隆夫は老人の言葉に腹を立てた。
「なんやと、このじじい。ゼニめぐんだっとるのに、その言い草なんや。いらんのやったら返せ」
従順なはずだった老人に、自分の安っぽい優越感が崩された。隆夫は、老人の肩を突き飛ばした。腕も足も不自由な老人は、よろめくこともなく、ごろんとあお向けにひっくり返った。ソースがべっとり着いた経木の皿や、誰やらが鼻をかんだちり紙が風に吹かれて舞う道ばたで、老人は恐怖の目で隆夫を見返した。隆夫は「へっ」と言い残して立ち去った。
それから数日後、前よりさらにやつれた顔をした老人が、不自由な腕を垂らしたまま背中を丸めて歩いているところを、隆夫は見た。食うものを食っていない、そんな様子だった。老人と目があった。老人は必死の形相で、腕をだらんだらんと振りながらひょっこひょっこと隆夫に近づいて来た。そして、隆夫の前でわざとらしく転んだあと、乞う目で見あげて懇願した。
「ああ、なんか、なんか……」
老人が「食わせてくれ」と言おうとするのを、隆夫はさえぎった。
「なんじゃじじい、まだ生きとったんか。おっさんにやる金なんかあれへんわい。どこなと行って、のたれ死にせんかい」
隆夫に突き放された老人は、それでも何度も頭を下げ金を乞うた。隆夫は地べたにへたり込んで頭を下げる老人に、またへっと言い残して立ち去った。
それからひと月あと、隆夫は、老人がアパートの一室で死亡しているのが発見された、ということを新聞で知った。新聞の一面は、日本初の心臓移植を受けた青年が八十日あまりで死亡したとの記事で埋めつくされていた。老人の死亡記事は府下版に十行程度で書かれていた。そのとき隆夫は、老人が細井という名だったということをはじめて知った。
肌寒い風が吹く季節、ジャンパー姿の人々がめだつようになったころの出来事だった。
―――――
アパートの廊下で倒れ込んだ隆夫は、今、あのときの細井老人と同じ立場にいる。さっき隆夫をまたいで立ち去ったニッカボッカの男は、数日後に飢えで死んだ老人のことを新聞記事で読むかもしれない、そして老人の名が谷岡だということを知るかもしれない、と隆夫は想像した。
廊下這い何とか部屋たどり着く。玄関中年女ふたり隆夫見ひそひそ話す。隆夫切ない視線送り「おあっ」声あげた。女ふたり爬虫類見る目つき変えることなく立ち去った。
隆夫絶望感抱き自室戻る。腐った汗垢悪臭放つ布団の上倒れ込んだ。窓の外しめやかな雨降り続いていた。
(つづく)