一 隆夫
賭の虫
一 隆夫
「何日たったやろ」
汗腐った匂い漂うぺたんこ布団寝ころび隆夫右目開けぼんやりながめた。部屋唯一小窓から入る鈍い光ぼおっと照らされた天井木目。来たげたでえ、霊界の声聞こえる。寝返りうつ力残っておらずただあお向け。はじめむずがゆかった背中、つぎに鈍い痛み、痛み徐々に大きく頂点過ぎるとしびれに変化して、最後しびれも感じなくなった。
「何日たったやろ」
顔、腹、ぼこぼこ殴られ蹴られ、からがらアパート逃げ帰ってきてから七日八日九日目かもしれない。
最初の一日は、痛みに耐えうずくまっていただけだった。
翌日には、腫れて感覚なくなった右足引きずって、何とかアパート共同洗面所たどり着き、ひびいった鏡映るおのれの腫れた顔情けない思いで見、蛇口全開ひねり、空腹満たすため水がぶがぶ胃袋放り込んだ。水道水ぱんぱん満たした腹抱え、部屋まで三十歩、遠い道のり必死の思い戻りまたどたり寝ころんだ。
つぎの日、腹のなか祭りのごとくすさまじい下痢襲う。足引きずりいく度も共同便所駆け込んだ。和式便器金隠し背に右足投げ出しぺたり座り込み、ほとんど色のない排泄物まき散らした。
さらにつぎの日、左まぶた大きなこぶ痛み和らぐが激しく熱持つ。どくどくテンポ速く脈感じる。右すね腫れ引く気配なし足全体鉄塊巻きつく感覚。骨折自分でもわかる。タオルとも言えぬ異臭漂うタオル水含ませ左まぶた右足交互に冷やしただただ苦痛に耐え一日過ぎた。腸ぶるぶる震う。下痢治まることなくごろごろ鳴るたび不自由な足引きずってさんざ時間かけ便所行く。が、この日数滴の水肛門からたれるだけ。それもそのはずこの日前の日一滴の水も口含まず。収縮の限界超えた胃袋飢え渇き感じることもなし。
夜中、外灯の光入る三畳間しっくい壁ひび割れ見隆夫ひとりつぶやいた。
「大丈夫や。こんなこと前にもあったわい。せや、あんときも死ぬかと思たけど大したことあれへんかった」
あれは三十五年ほど前……。
―――――
確かあのときも、全身ぼこぼこになるまで痛めつけられたのだった。五、六人のチンピラに殴られ蹴られている間、隆夫は抵抗もできず、うっうっと声を発するだけ、サンドバッグのように身を任せていただけだった。はたしてどれほどの時間殴られ続けただろうか。最後に、男の吐き捨てたツバが隆夫の鼻先ではねたことは覚えている。街灯の光が倒れ込んだ隆夫の姿を照らしていた。
何時間か経って、隆夫はようやく動きだした。立ちあがっても歩くこともできず、犬のように這って簡易宿泊所に帰ってきたのだった。
あのころの隆夫は、あるアパートの一室でひそかに開かれていた賭場で、小間使いの仕事をしていた。外に出て私服警官が来ないか見張ったり、客にコーヒーいれたり、出前を取ったり。組に入る度胸はないが楽して金は手に入れたい三十過ぎの子持ち、そんな隆夫は組の末端構成員を兄貴兄貴と慕う十六、七の男にも使われる立場だった。
大通りから狭い路地を入ったところにその静かなアパートはあった。二階の一室で週に三回だけ開帳される賭場。賭場が開かれる夜は二十人ばかりの客が入れ替わり立ち替わり訪れていた。わずか十二畳の部屋は足をのばすこともできないほどのにぎわいだった。
胴元はやくざだがやくざ自身がこういうところに客としてくることはない。客の多くは飲食店店主、会社経営者といったかたぎだった。なかにひとり、いつも全身着かざってやってくる女がいた。水商売の女らしいことは想像がついた。まだ二十代のように見えたが本当の歳はわからない。女が放つ近寄りがたい空気にまわりの男たちは一歩引いていた。女は男たちが躊躇するような万のコマを平然と張る。そんなとき客のなかから「ほおっ」とため息が聞こえてきた。
はじめは小間使いばかりさせられていた隆夫だったが、生意気なだけのガキより客扱いもうまいし要領も良い。胴元の親分はいつしか隆夫に金勘定を任せるようになっていった。コマ十個売り千円買い九百七十円、隆夫は客のややこしい注文にもテキパキと応じてコマと金を交換していった。客から受け取った金は無造作に木箱のなかに放り込んでいく。札びらはどんどんたまっていった。ある程度札がたまったところで、額面ごとに百枚ずつそろえ、引き出しに収めていくのも隆夫の役目だった。百円札、五百円札、千円札の束ができあがっていった。
その日の場はいつになく緊張感が漂っていた。例の女が壺振りの真ん前に座っていたからだ。壺振りと女が鋭い視線を交わす。
「よござんすか」
壺振りが壺を高く掲げカラリと音を立てて盆ゴザにトンと伏せた。肩に彫られた牡丹の花が揺れた。女が「丁!」と勢いよく声をあげコマを前に送り出した。ふあっと香水の匂いが漂った。
「半ないか。半ないか――。さあ、半、半、半ないか。半ないか」
客のなかから大きな息づかいが聞こえた。何人かがしぶしぶ半のコマを出した。みんな女と壺振りのかけひきに注目している。
隆夫に注意を払っている者はひとりもいなかった。隆夫は後ろをちらっと振り返った。胴元の親分が恰幅の良いネクタイ姿の客と寿司を食べながら談笑していた。
隆夫のからだのなかでなにかがざわりと騒いだ。
隆夫は黙々と札びらを分け、束にして帳面につけていく。今小箱に残っている金は帳面につける前の金。一枚や二枚くすねたところで誰にもわからない。隆夫は札びらをそろえるような素振りをしながら、すばやく千円札を拳のなかに丸めた。心臓が激しく鼓動を打った。見つかったらただでは済まない。隆夫は、握ったままのその手を口に持っていって、ごほっとひとつ空ぜきしたあと、胸ポケットに手を入れタバコの箱を取りだした。
「二六の丁!」
大きな声が場に響いた。びくっとした。が、やはり誰も隆夫のほうは見ていない。隆夫は箱からタバコを一本取って口にくわえた。そして、拳のなかの千円札を箱に押し込み、胸ポケットに戻した。小さく息をついた。
うまくいった。この手は使える。隆夫は賭場に女がやって来るたびに金をくすねるようになった。だが、くすね方が大胆になってきた何回目かに、五千円札を懐に入れたところが、ついに見つかってしまったのだ。
組のチンピラに左右から抱きかかえられ、隆夫は自転車がやっと通れるような小路に連れていかれた。人気のないところで殴られ蹴りとばされている隆夫の姿を、親分が茶色のサングラスの奥から冷たい目で見ていた。隆夫は抱えられたまま倒れることも許されず、ただチンピラの拳に身を任すしかなかった。
隆夫がやっとの思いで簡易宿泊所に帰ってきたとき、当時十歳の息子が驚いた顔をして言った。
「父ちゃん、どっ、どないしてん」
「下手打ってもうた。金ごまかしてんのんばれて、組のやつにやられてもうたんや。ううっ、あかん……」
隆夫は敷きっぱなしの布団の上にどかっと倒れ込んだ。
「大丈夫か」
「ああ、心配すんな。ちょっと横んなっとったら直る」
息子は心配そうに隆夫をながめていたが、しばらくして言いにくそうに言った。
「あんなあ、父ちゃん」
「なんや」
「ぼく、なんも食べてへんねん。おなか空いてんねん」
「そっ、そうか。せやったな――」
「どうしょ。お金ないんやったらがまんしょうか」
「裏のパン屋行ってこい。二、三日したら父ちゃん必ず金持ってくるからて、おばはんに言うたら、パンぐらいくれるはずや」
三日の間、隆夫は横になって丸まったまま、なにも食べずに寝ころんでいた。息子はメロンパンを手に、隆夫の様子をながめていた。一回だけ「救急車呼ぼか」と聞いたことがあったが、隆夫が「かめへん」と答えるとそれっきりなにもしなかった。息子が学校に行っている昼間、隆夫は「俺、もうあかんかもわかれへん」と思っていた。
四日目になって、急に腹が減ってきたのを感じた。まだ夜も明けない朝四時、腕や足の腫れはまだ引かず、痛みが残っていたが、何とかよろよろと立ちあがって日雇い求人センターに出向き、六十過ぎの年寄りを押しのけて、本船の荷役の仕事にもぐり込んで金を手に入れた。腕や足がずきずき痛んだけれども動けないことはなかった。動いているうちに、ずきずきがだんだん治まってくるような感じがしていた。
夜になって、隆夫と息子はようやく近所のめし屋で人並みの夕食をとった。ファイティング原田が世界チャンピオンになったという記事を大きく載せたスポーツ新聞を見ながら、腹いっぱいになるまで飯を食った。
―――――
「あのときも、死ぬか思とったけど助かったんや。今度やって、どうってことあれへんわい」
隆夫あのとき思い出しつぶやいた。自分安心させるよう。
「せや、あした、正一に電話しょ。小銭まだあったはずや」
昔メロンパンをかじっていたひとり息子の正一は、今四十も半ば。その息子とは十日ほど前に大げんかしたっきり連絡をとっていない。けんかの原因はもちろん金だ。隆夫は六十六になる今もギャンブルに狂い、息子や親戚連中から金の無心をくり返していた。この前も七十を過ぎた兄から、生活を支えている受け取ったばかりの年金の半分をむしり取った。そのことを知った息子は父を激しくののしり、ののしられた隆夫も反発して大げんかとなったのだ。
しかし、今となっては頼れるのは正一しかいない。
左まぶた当てていた塗れタオル、生乾きつんとくる匂い漂わせもはや患部冷やすに役たたず。隆夫横向きからだ丸めて眠ろうとした。痛み空腹下痢の苦しみ耐え。
(つづく)