Vision
砂煙る街並みをはるか見下ろし、シンはアニマと空にいた。
パルマコの血液から精製された人工の花。それはアニマの左胸で風に揺られている。役目を終えた宝石は音も無く崩れ去り、もはやこの世のどこにも存在しない。
「アニマ、俺で良かったのか?」
「何が?」
「連れてきてもらっていて言うのも何だけど、見ていることしかできないぞ。俺は。たぶん」
アニマは一瞬きょとんとした顔をした後、くすくすと笑った。
「何をいまさら。これまでだってそうだったじゃないか」
お腹を押さえ、目尻に涙まで溜めて笑っている。
シンはむっとしてアニマを睨んだ。
「ゴメンゴメン。ボクはシン以外乗せる気は無いよ。それにシンだから見て欲しいんだ。ボクの初めての晴れ舞台」
白皙の美貌に凛々しさを湛えてアニマは言った。元々白い手がさらに白くなるほど強くステッキの柄を握りしめている。
シンはその手を握ろうとしてやめた。その代わりにアニマの背中を手のひらで思いっきり引っ叩いた。
「いきなり何するんだよ!」
「気楽にな。失敗したら俺がセクハラしたせいだってことにでもすればいい」
少しわざとらしかっただろうか。空の上、逃げ場の無いところで、アニマにまじまじと見つめられると、シンは段々と恥ずかしくなってきた。
「……前科一犯。思い出した」
アニマは目を細めてにんまりと笑った。
「男同士でもセクハラはセクハラだよね。これが終わったら一緒にお風呂入ろうよ。ボクだけ裸を見られてるのは不公平だ」
「それこそセクハラだ」
「それもそうか」
アニマは左胸から一輪の花をそっと抜き取り、手を離した。
空中に浮遊する菖蒲色。
まるであやとりでもするかのように、花の周囲で指を振ると、花びらに炎が灯った。
「おいおいおい。大丈夫なのか?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。ボクに任せなさい」
花びらは淡い青色の炎を上げて微かに燃え続けている。アニマが指を揮うと、それに合わせるように、炎が揺れる。集合と散会を繰り返す五枚の花びら。それはさながらダンスのようだ。
目を凝らしてみると、青い炎の先から微細な粒子が風に舞い、空に溶けていくのが見えた。薄く広くどこまでも拡散していく。
「街の外縁まで届かせないといけないからね。少し時間がかかるかも」
アニマは何事も無いように言うが、額には玉のような汗が浮かんでいた。
シンからすれば、底無しのように思えるアニマの魔力を持ってしても、ケートの街全体をカバーするには広過ぎるのだろう。
「ふふっ。ボクが力尽きたら、シンまで巻き添えで真っ逆さまだ。他の誰が死んだって構わないけど、シンが死ぬのは嫌だ」
アニマの決意を知って、シンは早々に説得を諦めた。
何の力にもなれないかもしれないが、自分のできることをしようと思う。幸いにして、シンには見えている。アニマの意図する魔術の流れが手に取るようにわかる。その流れに逆らわず、取りこぼしを補完する形で受け渡す。
「……シン?」
「あ、もしかして邪魔だったか?」
「ううん。少し驚いただけ。続けてよ。その方が楽しい」
全身を軽く揺らしながら、嬉しそうに魔術を操る姿に、シンまで楽しくなってきた。
その小さな肩に街の命運がかかっていることを考えれば不謹慎だ。しかし、その一方で、アニマ一人が失敗したくらいで滅びるような街ならば、いっそ滅びてしまえばいいとさえ思う。
魔術の大波が空を走り、オーロラのような青白い光が街を照らし始めた。
粉雪のように舞うライトブルー。しっとりと街を覆い隠していく。
アニマはふう、と一息ついた。
「ボクができるのはここまで。あとは野となれ山となれだ」
魔術は解き放たれ、既にアニマの制御を離れていた。それを見届け、シンも肩の力を抜いた。
「いやー。自分で言うのも何だけど、ボクって天才だなー」
「そうだな」
シンが答えると、アニマは目をぱちくりさせた。
「何だ?」
「そこは突っ込むところでしょ。お前が天才なら俺は大天才だ、とかさ。結局最後まで助けられちゃったわけだし」
何かを期待するような視線を向けられても、残念ながらシンはエスパーではないので、アニマの言いたいことは読み取れなかった。
「下りないのか?」
「うん。もう少しだけ。ちょっと疲れた。肩貸して」
寄りかかってきて目をつむる。シンがじっとしていると、すぐに規則正しい寝息が聞こえだした。ステッキはまるで揺り籠のようにゆっくりと揺れている。そのせいで、シンは初め、アニマが狸寝入りしているのかと疑った。しかし、どうも違うらしい。空に浮かんだまま、一定の高度を保ったままで、アニマは眠っていた。
シンはしばらくの間、そのあどけなく安らかな寝顔を眺めていたが、襲い掛かってきた睡魔にのまれ、アニマに続くようにして眠りに落ちた。
目を覚ましたのはアニマが先だった。そして同時に驚いた。豊かに膨らんだ胸の上にシンの頭が乗っていた。思わず声を上げそうになったが、寸前で飲み込んだ。シンは気持ち良さそうに眠っていた。
胸がドキドキと高鳴っていた。止めようとしても止められない。恥ずかしくて死にそうだった。
「もう。今だけだからね」
アニマは呟くと、シンの頭をそっと撫でた。
自分にとってシンは特別だ。
同性の友人としては当然として、他の意味でも好きになりつつあるのかもしれない。体の変化に感覚が追いついていかない。複雑な感情を持て余していた。
「セクハラ、セクハラかぁ。割と本気だったんだけどなぁ」
もしも同性の気安さから、体を求められたら、拒みきれる自信は無い。しかし、異性の体への興味あっても、シンは自分にそういうことを求めてこないだろうと思う。稀に欲望に素直になっていることもあるが、アニマはシンのことを全面的に信頼している。シンにならいまの女に変わってしまった裸を見られても平気だ。
「ご褒美もらうね」
気づかれないように、ほっぺたに触れるだけのキスをする。深い意味は無い。もっと濃厚なキスを何度も交わしている。それなのに、今までで一番……。
アニマは急に恥ずかしくなってきた。気の迷いでとんでもないことをしてしまった。これまでのキスとは全く意味が違う。魔法とは全く関係の無いキス。それも、寝込みを襲うような形で。これではシンのことを全く笑えない。
シンの目がうっすらと開いていく。
「お、おはよう」
「うん? ああ。俺、寝ちゃったのか」
まだ覚醒しきっていないのか、ぼーっとした顔をしている。しかし、焦点が定まってくるにつれ、目に見えて狼狽してきた。
「そのことについては触れない方がお互いのためだと思うんだよ。だからね。ゆっくり離れよう」
自分のことは棚に上げて卑怯だと思うが、いたしかたなかった。女になってしまったのが不可抗力なら、シンが胸に顔をうずめているのも不可抗力だ。
「街を見て。全部終わったよ」
深雪が溶けるように街並みが洗われていく。
街全体をすっぽり覆い尽くすような大魔術はさすがに初体験だった。不安が無かったといえば、嘘になる。成功して良かった。シンの協力が無ければ失敗していたかもしれない。
あえて口にしたことは無いが、アニマはシンの魔術センスに脱帽していた。
自分なら一度見た魔法は忘れないし、初めての魔法ですら練習せずともほとんど一発で、悪くても二度、三度試せば成功させられる。しかし、それが「特別である」ことも知っている。魔法を学び始めたばかりの人間が「見たこともない」大魔術の構成を見抜き、サポートすることなど普通なら不可能だ。シンは自覚していないようだが、アニマの一族と比較しても遜色ないほどの、ひょっとすると、それ以上の才能に恵まれている。
「本当に天才かも」
「ああ! 天才だな! 間違いない!」
興奮してはしゃぐシンに肩を抱かれた。その力強さ、逞しさ。大魔術の余韻で体が火照っているのは、どうやらシンも同じようだった。
アニマは体を後ろに倒して風に乗った。シンの慌てふためく声は聞こえないふりをする。熱を帯びた体に強く吹きつける風が気持ちいい。眼下にケートの街を一望する。
ボクの街だ! ボクたちの守り抜いた街だ!
アニマは風に任せ、気の済むまで空中遊泳を楽しむことにした。




