Serum
スラムには不穏な空気が立ちこめていた。
青と白の制服姿が中心となって、治安維持に当たっているおかげか、表だって不平を言う者はいない。だが、不満はくすぶっている。それは避難してきた人間に限った話ではない。元からスラムで暮らしていた人間も同様だ。軋轢が表面化し、いつ臨海点を越えるかもしれない。
足早に閉鎖された孤児院へ向かう。
併設されている教会の門戸は部分的に開放されていた。正面で門番をしているスターシュ教会の男たちと揉めているのは、良く知った顔だった。
「個人的には入れて差し上げたいのですが」
「うるせぇ! てめぇじゃ話にならねぇ! 責任者を出せ!」
仲裁に入っているのも、これまた良く知った顔だ。
「二人とも何してるの? じゃ無かった。何をしているのですか?」
気安さから、アニマは素で話しかけそうになっていたが、きりりと顔を引き締め、問い直した。一斉に注目されても、まるで動じていない。
「これは、ミレニア様。ご機嫌麗しく、お目にかかれて光栄です」
慇懃に一礼するスペンサーに合わせて、スターシュ教会の男たちも一様に頭を下げた。絶対的なミレニアの威光を肌で感じる。
「堅苦しい挨拶は結構です。どうぞ楽に。クリーン、行きますよ」
左右に割れた男たちの間を臆することなく進んでいく。その後ろをシンはクリーンと連れ立って追いかけた。
「身内に有名人がいると便利だな。いや、助かった。それとさっきは悪かった」
「いいよ、別に。こっちにも落ち度はあったと思う」
振り向かずにアニマは言った。
回廊を歩いている間に、シンはざっと説明した。
「パルマコのやつ。そんなに悩んでたのか」
クリーンは少しだけ気落ちしたようだ。シンは自分がパルマコに好かれていると思うほど、自惚れてはいない。彼女を説得するためには、クリーンの協力が不可欠だ。クリーンはどこまでわかっているのだろうか。
建物の中に入りきれなかった人々が、生気の薄い顔をして押しこめられていた。ニウスアルミ大聖堂前で見た顔もいる。パルマコの姿は見えない。
クリーンは構わず閉鎖されたはずの孤児院に押し入ろうとドアノブを掴んだ。開かない。懐から鍵を取り出し、ロックをはずした。
子どもばかりが、それも痩せ細った子供ばかりが、肩を寄せ合うようにして縮こまっていた。突然の来訪者に怯えていた。そんな中、パルマコはぽつんと一人、少し離れた場所で、仏頂面をして不機嫌なオーラを撒き散らしていた。
「マックス!」
一瞬目が合った気がしたが、そう感じたのはシンだけだったようだ。相手はシンには目もくれない。クリーンに向かって一直線だ。
「どうして! いつ! なんで! ううん。そんなこといい!」
「おいおい。熱烈な歓迎は嬉しいが、こっちは怪我人だぜ。ちょっとは手加減しな」
片手で器用に抱きとめ、熱い抱擁を交わす。
パルマコは涙でぐしゃぐしゃになって、何を言っているのかすら不明だ。けれども、二度と離れたくないとでも言うように、クリーンにしがみついて放そうとしない。遠巻きながら子供たちも集まってきた。
「なんかいいよね」
「調子に乗らない」
肩を寄せ、体重を預けてきたアニマをやんわりと押し返した。
建物の奥から、シスターとレリックが顔を見せた。
「どうやらうまくやったようだな」
「そちらこそ。まだ終わってないけどね」
レリックとアニマが拳を合わせ、シンもそれに続いた。
「彼女が最後の関門なんだよ。シンが何とかするって言ってたからボクは任せようと思う」
「そうなのか。お手並み拝見といこう」
クリーンに抱きついたまま、パルマコは顔だけをこちらへ向けていた。シンと目が合うと、あからさまにそっぽを向いた。
「話だけでも聞いてやってくれ。あとで何でもお願いきいてやるからさ」
しゃがんで目線を合わせたクリーンに優しく頭を撫でられて、パルマコは困り果てていたが、クリーンが念を押すように「頼む」と言うと、渋々といった体でシンの前に進み出た。
「あんたたちのことはだいっ嫌いだけど、マックスがどうしてもって言うから。手短にね」
シンは感情を逆撫でしないようできるだけ淡々と事実だけを述べた。
彼女の血が人殺しの道具に使われたこと。
それを治すためには、また血が必要なこと。
街の中心部の悲惨さやデッドの最期については伏せた。
パルマコは頷きながら話を聞いていたが、その進行と同調するように機嫌が悪くなっていった。
「それで、犯人は捕まえたの?」
「もちろん。ボクが保証する」
アニマが横から口を挟んだ。顔色ひとつ変えない。
「そう。そういうこと。最悪の置き土産だわ」
パルマコは無造作に袖をまくり、痛々しい傷跡が何本も残る腕をさらした。ポケットから大振りのナイフを取り出し、その痩せ細った手首に当てた。
鈍い光。
シンは咄嗟にナイフを持つ少女の腕を掴んだ。皮膚の下の脂肪は薄く、直に骨を掴んでいるような印象を受ける。
「血が必要なんでしょ?」
パルマコの声は冷たく、軽蔑を色濃く表していた。
シンは怯まなかった。彼女自身の手で腕を切らせたくなかった。
違う。
二度と彼女に腕を切らせたくなかったのだ。腕の傷よりも、ずっと深刻な傷がパルマコに残りそうな気がした。シンでは彼女の傷は癒せないかもしれないが、新たな傷が作られようとしているのをみすみす見逃せなかった。
「奥に行こう。みんな怯えてる」
「優しいのね」
シン、パルマコに続いてアニマが別室に移動し、最後にクリーンが扉を閉じた。
「ナイフは物騒だよ。これ使って」
アニマはどこからともなく銀色に輝く細い針を取り出し、クリーンに手渡した。
「危険は無さそうだが……」
指先でつまみ、目を眇める。
「パルマコ、いいか? 嫌なら嫌って言えよ。その時は一緒にとんずらこけばいいだけさ。こんな居心地の悪い街に義理立てする必要なんてないからな」
クリーンは軽く言ってのけたが、誰がどう見ても本気だった。
「マックスのいじわる。マックスに頼まれたら、断れないの知ってるくせに。その言い方はずるいわ」
「そんなんじゃいつか悪い男に引っかかるぞ」
頭を撫でられて嬉しそうに目を細めるパルマコは年相応に幼く見えた。
「腕出しな」
クリーンは跪き、パルマコの手を優しく取った。痩せた腕に浮かび上がった青い静脈。そこへ細い針の鋭く尖った先端を押し当てた。
ぷつり、と赤い玉が滲んだ。針は自立し、血液を吸い上げ始めた。じわりじわりと針は赤く染まり、その色を変える。やがて突端まで血の侵食が進むと、花弁が開くように五枚に割けた。しかし、それで終わりだった。花弁は黒く変色し、そのまま崩壊した。
「どういうこと?」
「うーん、やっぱり無理だったか」
落胆した様子もなく、むしろ当然の結果に満足するようにアニマが言った。
「やっぱり? やっぱりってどういうことよ! 事と次第によっちゃ許さないわよ!」
パルマコに噛みつかれても、アニマはまるで動じない。銀糸のように光り輝く髪の毛を一本抜き取り、形状を変化させる。こよりのように渦を巻き、瞬く間に極細の針が完成した。
「慌てない、慌てない。いまのは実験してみただけだから。材料が足りてなくても、ボクなら何とかできるかもしれない。そう思ったんだ。でも無理だった。世の中、そこまで甘くは無いね。パルマコ、ごめんね」
深々と頭を下げるアニマにパルマコは、振り上げた拳をうろうろさせる。
「それとシンにもごめんなさい」
突然の謝罪に完全に虚を突かれた。シンには謝られる理由がわからない。最後の最後になって望みを絶たれたからだろうか。それなら、アニマだけに責任があるわけではない。
「首から下げてる青い宝石、それが必要なんだ」
「ああ、そうなのか」
シンは躊躇いなくペンダントを外し、差し出した。けれども、アニマは一向に受け取ろうとしない。
「どうした?」
「本当にいいの? 父親の形見だって。魔術に使ったら無くなっちゃうんだよ」
父親との絆の象徴をいま一度握りしめてみた。だが、シンは全く惜しく感じていなかった。二度と自分の手には戻らないと言われても執着が湧いてこない。
「いいんだ。父親は」
アニマの手に半ば無理やり握らせた。
「ありがとう」
アニマは手の中の宝石を感慨深そうに少しの間見つめていた。
「さっさとしなさいよ。痛い思いするのはあたしなんだから」
憎まれ口を叩きながらも、針を刺しやすいように腕を捧げたパルマコに、アニマはもう一度頭を下げた。
「親指握りこんで。そう、そんな感じ」
腕を取り、浮いた静脈にゆっくりと針を差し込んだ。
針全体が臙脂色に染まり、さらに血を吸い上げ、徐々にその赤みと光沢を増していく。内部にたっぷりと血液を貯え、吸収しきれなくなった分が表面から染み出し、薄く筒状の液体被膜を形成した。
アニマは金属光沢を放つ薄紅色の針をすっと抜き取り、パルマコの傷口を二本の指で軽く押さえた。そのまま指をずらし、痛々しい傷跡が残る腕をひと撫ですると、嘘のように傷が消えた。
「余計なお世話かもしれないけど、とりあえずお礼。受け取って」
「ふんっ! 本当に余計だわ!」
パルマコはぷりぷり怒りながら腕を隠した。
アニマは右手に薄紅色の針、左手に青い宝石を持ち、その中心に狙いを定め、針を粛々と突き刺した。青い宝石に根を張るように、赤い脈が広がり、針が自立する。その先が割れ、美しい五枚の花弁が成長し始めた。薄紅色に青色が混じり、瑞々しい菖蒲色のふっくらとした花弁が均等に広がった。
「できた。これで完成」
手のひらに大輪の花を載せ、アニマは笑った。




