変化
地上は死者たちの楽園と化していた。
黄塵が吹きすさぶ街を我が物顔で闊歩する。もしかすると、生者と死者の境界を渡り歩いた彼らにとって街は何ら変化していないのかもしれない。ほんの数時間前まで、ケートは確かに彼らの街だった。
「三人は運べない。地上はいけない」
ステッキを片づけながら、アニマが言った。
空も地上も塞がれているなら、残された道は一つだ。フェザンド川まで辿りつければ、地下道を抜けて、スラムへ出られる。
「それなら、こっちのほうが早い」
クリーンの先導で大聖堂の裏手へ回った。
何の変哲もない手入れの行き届いた青い芝生が広がっていた。クリーンはしゃがみこむと、地面を持ち上げた。暗闇に閉ざされた地下へと続く階段が姿を表した。
アニマが指を一振りすると、地下道が薄く照らされた。まるで満月の夜道を歩いているようだ。四方を囲まれているため、圧迫感は拭えないが。
「いつも身に着けてるペンダントなんだけど、大事なものだよね。その青いやつ」
「これか? 父親の形見だ。一応な」
「そうなんだ」
シンは青く光る宝石を手に取った。肌身離さず持ち歩いていたペンダントだ。何か訳ありだと思われていても不思議はない。しかし、これまで一度もアニマがそれについて言及したことは無かった。
アニマはじっと宝石を見つめていたが、結局それ以上何も言わず、話題を転じた。
「死者の書が正しければ、おそらく奇病は治せる。そのためには血液がいるんだけど、誰のでも良いわけじゃない。適切な血液がいる」
「適切な血液?」
「デッドは犠牲者の血液を魔術の材料に使ったはずだ。でも、それだと辻褄が合わないんだ。ボクらを滅ぼすために、ボクらの血液は使えない。抗体が働くからね。本当にボクらを皆殺しにしたいのなら、例えば耀子の血液を使えばいい。外国人とボクらでは免疫機能に違いがある。この国の誰も抗体を持たない最強最悪の病原体の完成だ。でも、それをデッドはやらなかった。やろうと思えばできたはずなのに」
「それでスラムは無事なのか」
「たぶんね。あそこに隔離されているのは、元々はこの国の人間じゃなかった人たちだ」
パンッと小気味よい音が鳴った。アニマが片頬を押さえている。クリーンがアニマの頬を平手打ちした音だった。
「あ、悪い。反射的に手が出た」
「わけわかんないんだけど!」
クリーンはしげしげと自分の手を見つめている。怒れるアニマに釈明する気は無さそうだ。一人ですたすたと先に歩いていく。
「なにあれ! ボク何か気に障るようなことした?」
「俺、なんとなくわかるよ。クリーンが怒った理由。アニマは正しいんだけど、正しさは優しくない。あそこにいる人間は誰も好きでああなったんじゃないし」
「そんなことわかってるよ!」
アニマは感情の高ぶりに任せて言い放つが、クリーンやパルマコの気持ちを理解できるとは思えなかった。シンも二人を知らなければ、きっとアニマの肩を持っていただろう。
「たぶん俺もわかってない。根本的なところでわかってないんだ。俺たちはこの国の人間だし」
「クリーンだって、そんなことを言ったらデッドもこの国の人間だ!」
「少し落ち着けって。誰もアニマが間違ってるとは言ってないだろ。大体七対三でクリーンの方が悪いと思う。少なくとも俺は」
猫のように鼻息荒く興奮しているアニマの両肩を押さえた。細く華奢で、少し力をこめただけで、傷つけてしまいそうだ。さっきまで大暴れしていたのを知っているだけに調子が狂う。
「続けて。一応、話くらいは聞くよ。シンじゃなかったらぶっ飛ばしてるけど」
ひとまず活火山の休止化には成功したらしい。だが、不平が喉元まで出かかっていた。いつ噴火するやも知れない。急いで鎮静化しなければ、巻き添えを食らいかねなかった。
「俺たちにとって必要なのは血液だ。それは正しい。でもクリーンはそこに人間を見てしまう。アニマほど割り切れない」
「それとボクやシンがこの国の人間だからというのと、どういう関係があるのさ。関係ないじゃん。クリーンが甘々なだけじゃん」
口を尖らせて拗ねている。
「言われてみれば……たしかに」
「たしかにって。まぁ大体言いたいことはわかった。つまり、ボクが彼らを見ていないって言いたいんだ。そんな些細なこだわりより、いまはみんなを助けるほうが重要だって考えるでしょ、フツー」
「だから、俺だってアニマの方が正しいと思う、けど?」
シンは自分で言っておきながら、もやもやとした疑問がわいてきた。クリーンの行動原理はなんとなく違うような気がする。
「やめよう。アニマの言うように些細なことに拘っている場合じゃない。クリーンにしろ自分が悪いと思ったから、一人で先に行ったんだ」
「シンがそれで良いなら。ボクはボクのやれることをやる。それは変わらないし、変える気もない。もうすぐ出口だ」
ぽっかりと歪な長方形。切り取られた白い光とともに、新鮮な空気が流れ込んできていた。
クリーンの姿は見えないが、最終的な目的地は同じだ。どこかで合流することになる。それこそ些細な問題だ。
地下通路から出ようとしたところで、腕を引かれた。
「待って。最後に確認したい。隠していることとか、何か言い忘れてることとかない? ここを出たら、みんなの前ではボクは演じなければいけない。細かい打ち合わせはもうできないと思う」
アニマに言われて、シンは立ち止まり、一呼吸置いた。
今生の別れでもないのに、アニマの目は真剣そのものだ。固く体を強張らせて、シンの言葉を待っている。
シンは改めてアニマの体を観察した。アニマの肉体は女らしさを保ったままだった。今まで気にする余裕が無かったから、いつから女でいるかは定かではないが、おそらくデッドとの生死を賭けた戦いの間もずっとそのままだった。それにも関わらず、自由自在に魔法が使えていた。何か決定的な変化が訪れたのかもしれない。
「体、何ともないのか?」
「ん。完全に女になったまま戻れそうにないけど、魔法は使えるし、むしろ調子いいくらい」
アニマは片腕で自らの体を抱いた。薄明りに細くしなやかな女の線が強調されて、危うさと不安を感じさせる。
「欲を言えば、もう少し男でいたかったかな。シンもボクが女の子になっちゃったら困るでしょ」
アニマは冗談めかして笑おうとしたが、目尻からは透明な滴が一筋流れ、頬を伝った。
「あれ。なんだこれ」
溢れ出る滴を押しとどめようと、何度も繰り返し目元を拭うが、涙はあとからあとから滝のように流れ落ちるばかりで、一向に止まりそうになかった。
「ボクはもうずっと前から覚悟してたんだよ。いつかこの日が来るって、魔法使いとして一段上のステージに上るためには避けられないことだって。だから全然平気なんだ。こんなのボクらしくない! シンが変なこと聞くからだ」
「アニマ!」
「同情はやめろ! ボクはつらくなんかない!」
掴んだ腕を振りほどこうともがくアニマを、シンは強引に抱き寄せた。抵抗する力は信じられないほど弱々しかった。
「アニマ! 俺は変わらない。性別が変わっても、俺たちは俺たちだ!」
「……頼れって? ボクがこんな体じゃなかったら、抱きしめたりしないくせに! 最悪! 最低!」
アニマは泣きじゃくりながら、シンを突き飛ばした。
シンは勘違いしていた。変化に振り回されているのは自分ばかりだと思っていた。その天性の明るさに騙されていた。己の意志の及ばぬところで肉体が変化していくのだ。何でもないはずがなかった。
「ねぇ、シン。ボクが女の子になっちゃったら困る? ボクは困るよ」
シンは恋人を愛しむようにアニマを抱きしめた。二度と男同士には戻れなくなる。そんな予感がした。それでもシンは彼女を抱かずにはいられなかった。秘めた思いは決して打ち明けない。墓まで持っていこう。そう決心した。
アニマほどの美貌を持ち、体まで完全に女になってしまっては、男として生きるのは不可能に近い。アニマ本人がどう言おうと、周囲は彼を女として扱うだろう。
ひとしきり泣いたあと、顔を上げたアニマは泣き腫らした目をしていたが、恥ずかしそうに笑っていた。
「もう大丈夫! 変に時間食っちゃった! 自分でもびっくりしちゃったよ」
「それはこっちのセリフだ」
シンの腕の中からするりと抜けだす。シンは引きとめられなかった。甘い薔薇の香りだけがわずかに残った。
アニマは痛々しいほどに元気だった。
シンはアニマが好きだ。きっとずっと前から好きだった。同性の友人として好きだと思い込もうとしていた。しかし、それは違うと確信した。自分の本心に気づいてしまった。
「実は出て行く前に聞いておきたいことはもう一つあるんだ。隠していたわけじゃないから、怒るなよ。なんとなくタイミングがつかめなかったんだ」
本当の気持ちを打ち明けるタイミングがいつか来るとは思えなかった。
「スリーサイズでも何でも答えるよ。意外とスタイルいいんだよ」
アニマは両手を腰に当てて、豊かさを自慢するように胸を逸らした。黒いドレスはところどころ裂けて、白い肌が露出している。
「俺が聞きたいのはパルマコのことだ。デッドに血液を渡したらしい」
「それって、ちょっと待って! どうしてそんなに重要なことをこれまで黙ってた!」
「俺たちは彼女を説得すればいい。それでいいんだな?」
シンはどこか上の空で会話を続けていた。
パルマコの血液こそが魔法の鍵だ。アニマの食いつきの良さが、それを物語っている。ケートの街を救う算段が付いた。喜ばしいことだ。違いない。
「そうそうそう! あってるあってる! それさえあれば、他の材料はどうとでもなる。いや、どうだろう。そんなに簡単でいいのかな。他の人間の血液を使った可能性だってある。ちゃんと最後まで確かめないと」
ぶつぶつと独り言をつぶやくアニマの頭の中では、既にいくつもの術式が踊っていそうだっだ。
無理にでも頭を切りかえていこう。
アニマとの関係はまだ始まったばかりだ。
シンは薄闇に閉ざされていた地下通路を抜け、目が眩むほどの光を浴びた。




