惨劇の幕開け
街のいたるところで砂煙が列柱のように立ち上っていた。
その数、実に五本。
一つは近い。レテの噴水の方角だ。
すぐに走り出したシンだったが、強引にその手を取られ、引き上げられた。
「乗って!」
アニマの意図を察し、シンは地を蹴った。ステッキの後部座席に収まると、アニマはひとつ頷いた。
「しっかり掴まっててよ」
上昇気流に乗った。空高く舞い上げられた土砂が、粉塵となって降り注いでいる。街全体が茶色く霞がかっていた。
空に出たのはどうやら正解だったようだ。地上は混乱の坩堝と化していた。爆発に巻き込まれたのだろう。血を流している人間が何人も目に入った。倒れて動かない人もいる。
悲鳴と怒号が交錯し、パニックに陥った群衆が我先にと広場から逃げ出そうとしていた。
「シン。あの人、ちょっとおかしくない?」
アニマが指さした男は、混乱のなかにあるにも関わらず、虚ろな目で空を見上げたまま、ぼーっと立ち尽くしていた。逃げ惑う人々に突き飛ばされ、倒されても、周囲とは不釣合いな鈍さで起き上がるだけだ。
その様子に気がついたらしい若い女が、男に近づき声をかけている。男はよろめくようにして、女に抱きつき、そのまま押し倒した。二人とも動かない。悲鳴の一つも上がらない。
やがて二人はのろのろともつれ合うようにしながら立ち上がった。
同じように生気の無い青い顔。個性が消え失せ、女は首筋から血を流していた。シンは背中にぞくりと不吉なものを感じた。
シンが身を乗り出すようにすると、逆に高度が上がった。
「アニマ?」
「まずいよ、アレ。たぶんボクたちがいま行ってどうにかなる類のものじゃない」
アニマの声も動揺に震えていた。
注意してレテの噴水の周りを観察すれば、虚ろな目をした人間は一人や二人では無かった。レテの噴水を守護するように取り囲んでいた。
ゆらゆらと体を前後に揺らしながら、死者の行進が始まった。生きた人間とぶつかるたびに、悲鳴と血しぶきの華が咲いた。死者の数はどんどん増えていく。老若男女の違いなく、無差別、無目的に増殖する。
地上は惨劇の嵐に見舞われていた。
「まさか・・・・・・ほかの場所も、なのか?」
奇病の蔓延。
クリーンから聞かされていた戦場の光景が、十年の時を経て再現されていた。
「この街を地獄に変えるつもりか?」
列柱の位置は五芒星の頂点、すなわち殺人事件現場を示していた。全ての列柱で奇病が同時発生しているとしたら、街全体に広がりきるのも時間の問題だ。
「変だ。まだ足りないはずだ」
アニマは爪を噛んだ。
「犠牲者の数が足りない。柱は五本。殺人事件は四つ。足し引き一つ足りない」
「犠牲者ならいくらでもいるだろ。何を言ってるんだ?」
話している間にも、眼下では虚ろな死者の列が長く伸びていく。
「結果だけを見ればそうだ。けど、それじゃ原因と結果が逆なんだ。魔法使いに結果論は無い。何か見落としがあるはずなんだよ」
冷静さを欠けば、犠牲者の数を増やすだけだ。
「パルマコ、か?」
必要なのは犠牲者では無く血液だった。
突如閃いた考えにシンは恐怖を覚えた。
殺人事件は血液を手に入れる手段に過ぎなかった。五角形の頂点を血で濡らすのが目的だったとしたら。殺人はそのためのカモフラージュに過ぎなかったとしたら。
悪魔染みた発想だ。しかし数は合う。だが、解決に繋がるとは思えなかった。
「そんなところで何をしているのですか! 降りてきなさい!」
屋根の上で青と白の制服が叫んでいた。他に制服姿は見えない。どうやら一人のようだ。
二人は屋根の上に降り立った。
「全くわけがわかりませんよ。あなたたちを張っていたら、このざまでしょう。とんだ貧乏くじです」
スペンサーは肩をすくめて溜息をついた。
「市民の味方なんでしょ。助けに行ったら?」
「そうだったんですけどね。左遷されました。まぁ納得ずみなんで、気にしないでください」
髪をかき上げ、場違いな笑顔を見せた。
「ミレニア様の信者は教会にも多いってことですよ。それだけで疑念が晴れるほどにね。知らなかったでしょう。アニマさんは」
「ばあちゃんのことを?」
「ええ。良く存じ上げております。あなたのこともね。良く似ておいでですよ。むしろ気づかない方がどうかしています」
どこまでも胡散臭い男だったが、極限状態だからこそ信じられるとシンは思った。
「現場の人間ほど魔法使いには感謝しているんです。戦場では幾度となく命を救われました。いまの体制を快く思っていない人間も大勢います。こんな状況で言っても言い訳にしか聞こえないかもしれませんが」
アニマは首を横にぶんぶん振った。
家という家の出入口は固く閉じられ、逃げ遅れた哀れな犠牲者の悲鳴だけが通りにむなしく響いていた。動く死体の数は増える一方だが、手をこまねいて見ていることしかできない。
「さて、どうしましょうかね。こんな状況では記念式典も中止でしょうし。あなたたちはこの後どうなさるおつもりで?」
「俺たちは、真犯人を捕らえるつもりだ。そのために努力もしてきた。このまま奴の思うようにさせてたまるか」
シンはふつふつとした怒りが湧き上がってくるのを感じていた。
シン自身、それは意外だった。「魔法使い」に拘泥するアニマの姿を何度も見てきていたが、シンは内心その拘りを軽んじていた。シンにとって、魔法使いとは「アニマ」であり、彼の生き様が魔法使い全体に対する信頼に繋がっていた。安心していたと言いかえても良い。魔法使いのことは魔法使いに任せておけばいい。そんな風に思っていた自分自身を恥じた。
理想に向けて邁進する友の姿を直近で見てきただけに、許せなかった。
「真犯人を捕らえたいのは山々ですが。しかし、どうやって?」
「ボクも聞きたい」
スペンサーはどことなく愉快そうに、アニマは真剣そのものだ。
「それは、その……」
連続殺人事件は五芒星の頂点を描くように起こっていた。
五つ目の殺人を完遂しなければ、魔法陣は完成しないはずだった。だからこそ、アニマは最後の事件現場として、レテの噴水付近が怪しいと睨んでいた。しかし、殺人事件は起こらなかった。
もしも必要なものは血液に過ぎなかったとしたら。
その仮定が正しければ、既に条件は満たしている。
「魔法陣は完成し、魔術は発動している。いまはとにかく結果だけ見よう。魔法陣が完成しているなら、術者はどこだ?」
「……中心だ。ボクはあほうだ。原因に拘りすぎた」
アニマは天を仰いだが、すぐに向き直ると両手で自分の頬を三度叩いた。
「反省終わり! シン、行くよ!」
「ああ。デッドはそこにいる」
シンは意図的に説明を省いた。
パルマコ。結論に至る重要因子。見落としは無いのだろうか。本当に。
「シン? 早く行こう」
「ふむ。それなら私の勘違いですかね。あちらの方が怪しいと思ったんですけど」
スペンサーが指さすのはスラムの方角だ。
「馬鹿にしてるの?」
「とんでもない。死者の動きに注目してみてください」
死者の群れは蟻のように列を成している。通りを埋め尽くさんばかりだ。 生命の抜け落ちた空虚な目。空いた口から涎と舌が垂れ下がっている。長く見ていたいものではない。
「個ではなく全体を見るのですよ。私の言っていることがわかるはずです」
「ああ、そういうこと。なんとなくわかったかも……つまり、あちらが空いてる?」
アニマに言われて、シンもはっとした。
一見、死者たちに意志は無いように見える。けれども、ある区画には一人の死者も向かっていない。それがスラムの方角だ。無差別、無目的に感染は拡大していくものだと思い込んでいた。クリーンも言っていたではないか。感染は選別される、と。
「スラム出身者が犯人、というのはできすぎていると思うのですが……まぁいいでしょう。頭の片隅には置いておいてください。私は私の仕事をします。あなたたちは中心部へ!」
風を裂いてアニマは空を駆る。
街並みが、徘徊する死者の群れが縮んでいく。
魔法陣の中心には、歴史的にも文化的にも重要な施設、ニウスアルミ大聖堂があるはずだ。スターシュ教会の本拠地でもある。いくら混乱のさなかにあるとはいえ、最後の防波堤の役割くらいは果たしているとシンは信じたかった。
天を突く白い尖塔が何本も並んでいるのが見えた。
ニウスアルミ大聖堂だ。
鉄柵で囲まれた敷地の外に市民が何人も取り残されていた。死者の群れが押し寄せるまで猶予は少ない。頑丈そうな鉄扉は閉じたままだ。
二人は地面に降り立った。
疲れた顔をした男が地面に座っていた。ちらりと二人の方を見たが、興味を失ったのか、すぐにうつむいた。
無駄だろうなと思いつつも、シンは扉を叩いてみた。空しく音が響いただけで、何の反応も返ってこなかった。
「遅すぎたんだよ、俺も、お前らも」
男は座ったまま投げやりに言い、片手に持ったガラス瓶から酒をあおった。顔が赤い。かなり酔っているらしい。
「お偉方は中で引きこもってるんだろう。ひょっとすると、もうこの街にはいないかもなぁ。普段偉そうに説教垂れてても、いざとなれば、こんなもんだ。ひひっ」
空になった瓶を投げ捨てた。
周りには逃げ遅れた人々が集まってきていた。
怯え、母親にしがみつく子供たち。天に祈りを捧げる老婦人。肩を寄せ合う若い男女。
みな、小奇麗な格好をしていた。
「ん? うぅん? そういやお前、どっかで見た顔だなぁ。他人のそら似かぁ?」
シンは男の前に立ちはだかった。アニマを見せたくなかった。
「何もしやしねぇよ。ただちょっと顔を見せてくれりゃそれでいい。どけよ、にーちゃん」
「ボクなら平気だよ」
アニマが前に出ると、男はいやらしくねめつけながら、ひと回りした。
「まさか……こんなところでお目に書かれるとはな! 炎雷の魔術師さまだ! 間違いねぇ!」
男は聞こえよがしに大声で叫んだ。市民の間からどよめきが起こるのを見届けると、薄ら寒い笑みを浮かべた。
「お助けください。ミレニアさま」
進み出た老婆がアニマの足元に跪き、懇願した。
「ボクは、違う」
アニマは否定するが、老婆にその声は届いていない。人の輪ができて容易に抜け出せなくなってしまった。空に逃れることはできるが、現実的には不可能だ。
「助けて。助けてくれよ。あんたならできるだろう」
「私たち、死にたくないの」
思い思いの言葉を口にする。誰もが疲れきっていた。命からがら逃げ延びてきた先で、ようやく捕まえられた最後の希望を離すまいと必死になっていた。
「……わかりました。私がなんとかいたしましょう。ですからどうかお顔を上げてください」
アニマは老婆の手を取り、優しく声をかけた。その顔は気品と自信に満ち溢れていた。容姿の美しさも相まって、神々しささえ帯びていた。血の成せる業だろうか。
「シン、近くに」
あまりの変貌ぶりにアニマを良く知るシンでさえのまれそうになったが、なんとか反応することができた。アニマが変なのはいまに始まったことではない。
「ね、どうしよう? とりあえず場を納めるためにばあちゃんの真似してみたんだけど」
耳元に顔を寄せられ、囁かれた。
「スラムへ向かわせれば、あるいは……」
シンは集まった人々を順繰りに見回した。みすぼらしい格好をしたものは一人もいない。スラムとは一生縁のなさそうな人たちだった。
「スラム、か。なるほど。それは難しそうだ」
アニマはシンにすらどうにか聞きとれるほどの小さな声で呟くと、あくまで慌てず、厳かに数歩前へ出た。
「迷える善良なるものたちよ。救わらる子らよ。何も心配することはありません。真理は正しき者とともに、神秘はあるべき姿に。全て定まっています。道はすでに示されました」
ゆるりと上げた右手の指先から、光の滴が放たれ、小さな水たまりのような円をいくつも形成した。ひとつひとつが微弱ながらも発光している。点々と続くそれらは、どうやらスラムまで伸びているようだ。閉鎖された孤児院のあたりで淡い光の柱が立ち上った。
「案内は」
「俺がしてやろう」
巨躯の男が進み出た。浅黒い肌に鍛え抜かれた鋼のような肉体。レリックだった。
お世辞にも人相が良いとは言えない強面の男たちが集まってきていた。青と白の制服姿も混ざっていた。
「おいおい。こんなやつらに任せて大丈夫かぁ? スターシュ教会のやつらもいるみたいだぞ。教会内部のいざこざに市民を巻き込まんでくれよ」
酒の力に任せて、どこまでも絡んでくる酔っ払いをシンは殴り飛ばしたかった。けれども、体制側と見なされている人間がそれをするのはいかにもまずかった。
「みなさん、恐れることはありません。この者たちは信頼できるものたちです。私が保障します。どうか彼らとともに避難してください」
ミレニアの威光を持ってしても、群衆を動かすまでには至らない。誰もが不安に煽られ正常な判断力を失っていた。
「シン、ミレニアさまのことは頼んだぞ」
片眉を上げて差し出された握り拳に、シンは戸惑いながらも拳で応えた。体の芯まで熱く響く。重い拳だった。
レリックはアニマに向かって恭しく一礼した。
「お前たちが不安に思うのも無理はない。だが、考えても見てくれ。俺たちははみだしもんだ。教会の連中に愛想が尽きたからここにいるんだ。未曾有の危機を前に立ち上がらなくてどうする。この街は俺たちの街だ。スターシュ教会のものじゃない。魔法使いのものでもない。俺たちが自分で何とかするしかない。そのためには生き延びなければならない。俺はしがない料理屋の店主だ。しかし、この街を愛する気持ちは誰にも負けないつもりだ。生き延びて街を取り戻そう。そのためにはお前の力も必要だ」
レリックは酔っ払いの手首をつかみ、高々と掲げた。
「俺たちはこの男の指示に従う」
レリックは片膝を立て、酔っ払いの手の甲に忠誠の口づけをした。
市民の間から笑いが漏れた。そして一人、また一人と立ち上がり始めた。
スラムへと向かう列の最後尾には青と白の制服姿がついていたが、その姿もじきに見えなくなった。 アニマは肩の力を抜いて、大きく息をついた。
「なんとかなって良かったー。七光りも捨てたもんじゃないね」
「名演技だった。あんな顔もできるんだな」
「どんな顔? 自分じゃよくわからないや」
少し困ったような、それでいて誇らしそうな様子で「にへへ」と笑う。
シンにとっては絶対者たるミレニアに扮しているときよりも、素のアニマの方が心臓に悪かった。こそばゆい気持ちを隠したくてシンは顔を逸らした。
「そろそろ行くか」
「ああ、行こう」
アニマは瞬時に引き締まった顔をするが、動き出そうとしない。
アニマを中心にして風が集まってきていた。決戦を前に、アニマのコンディションは最高潮に達していた。




