特訓
一週間が過ぎた。
特訓は基礎訓練のみだった。
すなわち、元素を体内に取り込み、貯めて、放出する。
それらを繰り返し練習することで、魔術に適した体へと、肉体は変化していく。
一度感覚をつかんでしまえば、シンにも魔術の本質が見えてきた。
しかし拙い。
横で同じように練習しているアニマが一度に集め、放出している元素の量は、まさに桁違いだ。しかも凄まじい速さで繰り返している。その余波で、周囲の空間は魔法が使いやすいように変化しているほどだ。わかりきっていたこととはいえ、なんとなく釈然としないものを感じるシンだった。
「集中せんか。見ていてはかどるわけでなし」
ミレニアから叱責が飛ぶ。
簡単そうに言うが、集中力を保つのにも一苦労だ。
体の内側で血管が波打つような違和感に苛まれている。
一連の動きを違和感無く自然と行えるようになるまで、他のことは教えないとミレニアから宣言されている。しかし、一時間も経たないうちに、シンは膝を折った。全身を倦怠感に苛まれ、頭がぐらぐらする。耐えられない。地面に吐しゃ物を撒き散らした。
「うむ。まぁこんなもんじゃろ」
「無理しすぎだよ。疲れたら限界が来る前にちゃんと休まないと」
アニマに背中をさすられる。
彼女自身はじんわりと汗をかいて、やや上気した顔をしているが、まだまだ余裕がありそうだ。それでも女の体になったせいで本調子ではないと言うのだから、アニマのポテンシャルはまさに底なしだ。
シンが力尽きている間、アニマはミレニアから個人授業を受けていた。
魔術で肉体を強化しての格闘術。
その名も近接魔闘術。
近接戦闘に難があるアニマのための特別メニューだ。外界に働きかける魔術は得意なアニマだが、自分自身をサポートするようなものはどちらかというと苦手らしい。
自分よりも一回り以上も小さなミレニアにいいようにあしらわれている。拳も蹴りも空を切るばかりで、全く当たらない。簡単に後ろを取られ、地面に転がされた。
「ちょっとは手加減してよ!」
「それでは特訓にならんじゃろ。バカ弟子が」
「うるさーいっ!」
跳ね起きたアニマが乱射した炎の槍はミレニアに届く前に全て消去された。そして再び地面に転がされる。
「また空にしてしまいおって。そろそろ学習せんか」
ミレニアは盛大にため息をついたが、アニマから返事は無い。全力を出し切って気絶していた。ミレニアはもう一度ため息をついた。
「シン殿、少し相談があるんじゃが」
わけもわからず地面に座ったままシンがうなずくと、肩に手を置かれた。
景色が色を失い一変する。
気がつけば、立派な屋敷の庭園に座っていた。懐かしい紫の薔薇が咲いている。そこはシンがアニマと子供時代を過ごした場所に瓜二つだった。
「我が家の別邸じゃ。ケートにはよく用事で来るからの」
きょろきょろと辺りを見回すがシンとミレニアのほかには誰もいない。
「アニマなら中で寝かしておる。しかしあれじゃな。アレはよほどシン殿のことを気に入っておるようじゃの」
「そうなのですか?」
「うむ。なにしろ女になっているのはおぬしのせいだと言っても過言ではない。一週間おぬしらを間近で観察していて確信が持てたわい」
ミレニアは腕を組んで一人うんうんとうなずいているが、シンの頭には言葉の意味が入ってこなかった。
「何を鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしておるのじゃ。もしやほかに好きな男の心当たりでもおありかな。それならシン殿に用はないのじゃが。それとも何か? わしの言うことが信用できんのかな?」
慌てて首を振るが、まるで理解が追いつかない。
「肉体と精神の関係は複雑じゃ。精神は肉体に引きずられやすく、また逆も然り。あの子の精神が男らしくあろうとする限り、その体は危ういバランスを維持することができる。男でも女でも無い状態だからこそ、アニマは唯一無二の存在じゃ」
反応できたのは手加減されたからだ。それでもシンは蹴鞠のように飛ばされた。ガードした腕が鈍く痛んだ。
「だから女などになってもらっては困るのじゃ。それでは施術を行った意味が無い。才能ある女などいくらでも用意できるからの」
「アニマはそのことを知って」
「もちろんあの子も納得ずみじゃ。だからシン殿には消えてもらわねばならない。魔術の礎のために」
彼女のなかでそれはすでに決定事項らしかった。稚気の欠片も無く、そこにいるのは自分よりはるかに年上の女性だとシンは実感した。
「魔術について知りたければ、家のものを紹介しよう。いずれも各分野のエキスパートじゃ。それで良かろ? ぬしは労せずして最高峰の魔術を学べ、こちらは一族の希望をどこの馬の骨かもわからぬ輩に奪われずにすむ」
シンの心には怒りの嵐が吹き荒れていた。
譲歩しているように見せかけて、しかしミレニアには一歩たりとも譲る気が無いのだ。
魔術と人間を秤にかけて、魔術のほうを優先する。
それがシンには許せなかった。
たとえ魔法使いでなくても、アニマは大切な存在だ。けれどもミレニアにとって魔法が使えないアニマはガラクタに過ぎないらしい。
「ま、わかりあえるとは思っておらぬよ。そこで提案じゃ。わしに一撃でもいれることができたなら、これまで通りあの子と付き合ってもらってかまわぬ。わしは近接魔闘術しか使わんから、気の済むまで何度でも挑戦すればよい」
「その言葉、後悔させてやる」
ミレニアは半身を引いて片手を上げると、挑発するように手招きした。
鈍色の空が泣いていた。
負けた。それも完膚なきまでに。
何故か涙は出なかった。
意識が回復したときには、スラムの片隅にボロ雑巾のように捨てられていた。
服はずたずたに引き裂かれているのに体は無傷だった。それが何よりも痛かった。
転ばされるたびに立ち上がり、ついには立ち上がれなくなるまで体を酷使したはずだった。
降りしきる雨が冷たくシンを嘲笑う。
ミレニアは魔術らしい魔術を使っているようには見えなかった。そんな彼女にシンは片手であしらわれた。何度向かっていっても指一本触れることすら適わなかった。
絶望的な力の差を見せつけられたに過ぎなかった。
相手は伝説にまで昇りつめた人物。しかし、そのことに慰めを見出すことはできなかった。彼女に認められなければ、アニマには会えない。それが純然たる事実だ。
「よぉ。こんなところで水浴びか? 風邪引くぞ」
修道服姿の男が黒い傘の内側からシンを見下ろしていた。一番会いたくない男だった。
「なんでここにいる?」
「これ見よがしに妙な結界が張られてるから見にきたんじゃねーか。それにしても惚れ惚れするね。悪意は完全に弾かれるようになってる。こんなに綺麗な回復陣は初めて見たぜ。これやったの嬢ちゃんか?」
シンは歯を食いしばり、悔しさで流れだしそうになる涙を押しとどめた。クリーンにだけは見られたくなかった。
「……違うみたいだな」
クリーンは傘を畳むと、濡れて汚れるのも構わず、シンの傍らに腰を下ろした。
「何だよ。向こう行けよ」
「あいにく人に命令されるのは嫌いでね。俺は俺のやりたいようにやるだけさ。これを作ったやつはただもんじゃないぞ。お前にはわからないだろうけど」
地面に這いつくばって調べ始めるものだから、顔も服も直ちに泥まみれになった。
「くそー。羨ましいぜ。俺もかけられてみてー。どうやったらこんなふうにできるんだ? 美しすぎるだろ。天才の俺に嫉妬させるとは」
クリーンは心の底から悔しそうに言ったが、どこか嬉しそうにも見えた。
「……ミレニア」
口をついて零れ落ちたのは、敗れた相手の名前だった。
クリーンは顔を上げて、体についた泥を拭った。
「ミレニアって……あのミレニアか?」
「たぶん、そのミレニア。アニマの祖母だったんだ。実はクリーンも会ってる。嘘みたいだろ?」
自嘲を浮かべたシンに対し、しかしクリーンは真剣な面持ちで耳を傾けている。それこそ嘘みたいに真摯な顔つきだ。
「それで?」
茶化すこともしない。
だからシンも肩肘を張らずに全てを話すことができた。話し終えるまでクリーンは時折相槌を打ちながら、基本的には黙って聞いていた。
「よし。話はわかった。俺が稽古をつけてやる」
意外な申し出に面食らったが、冗談を言っている雰囲気ではない。
「どういう風の吹き回しだよ。弟子はとらないんじゃなかったのか?」
「俄然興味がわいてきた。ミレニアに接触するには、お前を鍛えるのが一番手っ取り早そうだ。それに……」
クリーンは一瞬考えるそぶりを見せた。
「それに?」
「いや、なんでお前なんだろうな、と。ミレニアまで出張ってきたとなると、思った以上に厄介な事件なのかもしれない。伝説上の人物ってことは、言い換えれば過去の人間ってことだ。先の戦争でも表舞台に顔を出さなかったくらいなんだぞ。隠居したものとばかり思っていた」
「子育てしてたんだろ? アニマを溺愛してた」
「それで話の辻褄は合うんだが、何か引っかかるんだよな」
クリーンにも不自然な点はいくつか残っている。思えば最初からそうだった。シンは思い切って疑問をぶつけてみた。
「死なない敵に心当たりがあるんじゃないか?」
クリーンの顔がにわかに曇った。
「それを知ってどうする?」
逆に質問が返ってきた。シンはそこまで考えてはいなかったので、答えに窮した。
「まぁいいさ。ちょうど良い機会だから話しておくか」
どんな心境の変化があったのかは不明だが、クリーンはいつに無く親切だった。あるいはそう見せかけているだけかもしれない。けれどもシンには他に頼れる人間がいなかった。
「勘違いするなよ。ミレニアとのパイプラインは貴重ってだけだ。一方的に搾取するのは気が引ける。寄りかかろうとしたら切るからな」
見返りはシンの方が明らかに大きそうだが、それは言葉にしなかった。それに満足したのか、クリーンはゆっくりと話し始めた。
「動く死体。あれは虐殺の魔法だ。戦場で同じ症状のやつに何度も出くわした。奇妙なことに感染するのは敵軍のやつばかりだったがな。感染者が新たな感染者を生み出し、患者は爆発的に増えていった」
戦地での体験談をじかに聞くのは初めてだった。
シンの周りには大人の男がいなかった。政府の見解をそのまま口にする人間はいくらでもいたが、自分の言葉で話す人間はクリーンが初めてだった。
「戦争の最終局面はまさに地獄絵図さ。混乱の極致に陥った敵軍は自壊し、俺たちは戦わずして勝利を手にした。しかし、話はそれで終わらない。感染は燎原の火のごとく内地まで広がっていった。女も子供も老人もおかまいなしだ。向こうが無条件降伏を受け入れるまでそれは続いた」
クリーンは苦りきった顔をして言った。
「上層部が何かしたのは確実だ。あまりの後味の悪さにみんな口を噤んじゃいるが……」
戦勝十周年記念式典を控えた街の賑わいに反して、クリーンはそのことをあまり快く思っていないようだ。
「まさか、ミレニアが関わっていると思っているのか!?」
突如閃いたその考えに、シンは戦慄を覚えた。
ミレニアほどの魔法使いなら、国の上層部と繋がりがあってもおかしくはない。彼女は目的のためなら手段を選ばない冷徹さを持っている。それはアニマに対する態度から窺えた。
「決めつけるのは早い。しかし可能性の一つとしては考慮に入れておくべきだ。預けた背中を刺されて後悔したくないならな」
「クリーンは……いや、いい」
やけに実感のこもった言い方だったが、それだけに触れてはならないような気がした。まるで裏切られたことがあるようだとは言えなかった。
「教えてくれ。戦いかたを」
「いいぜ。天才の天才たる所以を教えてやろう」
いつの間にか雨は上がり、立ち込める雲間から陽光が差しこんできていた。




