スラムドッグ
アニマの変化は性別だけに留まらなかった。
本人が言うには、魔法がうまく使えないらしい。
手順を省略せずに、基本に忠実に行えば発動するが、出力の調整ができないので、実用レベルには達していないということだった。
シンは耀子から魔法の使えないアニマの護衛を任せられたものの、おそらく体よくお払い箱にされただけだと思われる。耀子にとっては二人ともお荷物に違いないからだ。彼女は一人で街を探索しているはずだ。
シンとアニマは二人で孤児院を目指していた。
危険度と重要度の双方が低そうな場所だが、アニマに言わせるとそうでもないらしい。
孤児院には魔法使い養成機関の側面もある、というのがその理由だ。
「それで、そのどこまで?」
「頭のてっぺんからつま先まで。耀子に確かめてもらったから」
アニマはしょんぼりとしてうなだれた。
元々性別不詳だったのに加え、全身をローブですっぽりと覆い隠しているせいもあって、外見から受ける印象は以前とあまり変わらない。しかし、まぶたの裏に焼きついた寝起き姿のせいで、シンは想像をたくましくしてしまう。
白い素肌と大きく膨らんだ胸の谷間はしばらく忘れられそうになかった。
「……むっつりスケベ」
「そんなことないだろ。いきなり何を言い出すかと思えば」
図星をつかれて跳ね上がった心臓に静まれと言い聞かせるが、鼓動は早鐘を打つばかり。
アニマの冷たい視線が痛い。
「ごめんなさい」
「うん。認めてくれればそれでいいんだ。ボクも昨日から変な感じだし。シンが変じゃなかったら凹む」
アニマの少し憂いを帯びた笑みに魅了されそうだ。本人に自覚は無いだろうが、危険な色香を振り撒いている。確かに護衛が必要だと思い直した。
歩き始めてすぐにシンは妙なことに気がついた。
アニマが少し遅れては足を速めている。シンは歩調を緩めて立ち止まった。
「どうかした?」
「あ、いや……女の子なんだなって。そこまで気が回らなかった」
シンは詳しく説明しなかったが、それで通じたようで、アニマは嬉しそうにはにかんだ。
そんな風に無邪気な反応が返ってくるとは思っていなかったので、シンは微妙に恥ずかしかった。アニマが言うように、どこか調子が狂っているのかもしれない。
「シンは女の子には優しいんだね。いくらボクでも調子に乗っちゃうよ。ね、服つかんでもいい? 実は歩きにくいんだ」
上目使いで甘えてくる。
シンは試しに腕を出してみた。
以前に腕を取られたときとは状況が違うが、アニマは乗り気のようだ。躊躇することなく腕を絡めてきた。肘に時おり当たる柔らかい感触を意識せずにはいられないが、悔しいので、シンは何でもない顔をして歩かなければならなかった。
「しかしどうしようか。折角女の子になったんだし、どうせなら何か面白いことしてみたい」
急に真面目な顔をしてアニマが言う。
積極的に寄り添われると、シンはたまらなくなってくる。アニマは自分の体の変化に無頓着なのだろうか。意識しないようにすればするほど、アニマが女の子にしか思えなくなってきた。自分ばかりが恥ずかしい思いをするのは不公平だとシンは思った。
「二人でやってみる?」
「……やらない」
反射的に否定したが、そのことが逆にアニマを喜ばせたようだ。
「ボクは魔法の練習のつもりで言ったんだよ。昔みたいに二人でやりたいなって。いったい何を想像したのかな?」
「……何でもいいだろ。たぶんアニマと同じだよ」
「やっぱりエッチだ。ボク相手でも色々したいんだ」
もじもじと恥ずかしそうに体を縮ませる。
シンは極力考えないようにしているが、密着しているせいで、時々どうしてもアニマの柔らかさを感じずにはいられない。はっきり当たっている。けれどもアニマが何も言わないので、シンも言い出せない。
「練習すれば俺にも使えるようになるのか?」
自分で言い出したことなのに、アニマはきょとんとしている。
苦し紛れに言ったことなので、非難はできないが、そのせいでシンはまたも直接的な感情を強烈に呼び起こされそうになった。
白銀に輝く腰まで届く長い髪。瑞々しい花の蕾のような唇。繊細な光彩を放つ赤紫色の瞳の奥には強い意志が宿っている。小さな顔はどこまでも整っていて、許されるなら、いつまでも見ていたいと思わされてしまう。男だと知る前のアニマに、シンは見惚れていたくらいだ。
「ちょっと聞いてる? 魔法なら使えるようになると思うよ。シンは才能あるもん。ボクほどじゃないけど。そうじゃなきゃ誘わないって。基礎練だから、子供たちとやるのもいいと思う。孤児院ならボクの体を元に戻すヒントも見つかるかもしれない」
「そうか。早く戻れるといいな」
「そんなこと言ってホントは戻らないほうが良いとか考えてない? ボクは男だよ。だから女の子にはわからないことだって知ってるんだから。ずっと気になってるでしょ」
胸を軽く押しつけられた。
「い、いつから」
「なんとなく。男相手に何かされたらトラウマになるから予防線」
アニマは笑って言うが、その体は微かに震えていた。
「ばーか。そんなこと考えたこともねーよ」
前科を咎められているようで罪悪感に苛まれる。
人の気も知らずにアニマは安心したように相好を崩した。
孤児院の門には立ち入り禁止のプレートが掲げられていた。クリーンからは何も聞かされていない。人の気配が全く感じられず、不気味なほどにしんと静まり返っていた。
門の隙間から中を窺っていると、背後から舌ったらずな声で怒鳴りつけられた。
「あんたたち、こんなことをしてタダですむと思って!」
継ぎはぎだらけのオーバーオールを来た女の子が仁王立ちしていた。日焼けした顔の頬にそばかすが浮いている。活発そうな娘だ。
「教会の犬! 思い知らせてやるんだからっ!」
言うが早いか、女の子は木の杖を振りかざした。ごつごつとしてほとんど加工されていない少女の身長よりも大きい木杖を地面に突き立て、振り回されながらも必死に図形を描き始めた。たどたどしい動きに、円陣は歪み、細長く楕円になりそうだった。
「シン、もう少し待ってあげよ。ボクに任せて」
囁き声で静止されて、シンは動きを止めた。
アニマは生徒を見守る教師のような温かい視線を少女に注ぎつつ、自らもステッキを取り出すと、ゆっくり鏡像のように円陣を描き始めた。洗練された流麗な一連の動作はまるで演舞のようだ。ひたすら美しい。
円陣が完成したのはほぼ同時だった。互いの前に光の矢が出現した。
少女の前には果物ナイフサイズが一本。
アニマの前には数え切れないほど、しかも槍のように大きく、強靭そうな代物だ。
「ひっ!」
少女は悲鳴を上げると、その場にへたりこんだ。飛ばした光の矢はアニマに届く前に力を失い消滅した。
「いっけーーーーっ!」
ノリノリで悪役を演じるアニマをシンは後ろからしばき倒した。放たれた無数の光の矢は天を目指して飛んでいった。
「魔法使えないんじゃなかったのか?」
「全力ぶっぱしかできないんじゃ使えないのと一緒でしょ? それにいまので、本当にしばらくは使えなくなった」
「ばかっ! 何考えてんだ!?」
「護衛よろしく。頼りにしてるから」
アニマは舌を出して悪戯っぽく笑った。
元からそのつもりだったとはいえ、付き合わされるほうの身にもなって欲しい。
シンは気を取り直して、地面に座り込んだままの女の子に向き直った。
「俺たちは怪しいものじゃない。立てる?」
「自分で怪しいなんて言う人はいないわ」
シンが差し伸べた手を乱暴に取ると、少女は勢いよく身を起こした。
「けどそうね。信用してあげてもいいわ。あなたたち見るからにバカそうなんだもの。悪い人じゃなさそうね」
小生意気にふんぞり返る。
「きみはここで何を?」
「パルマコ。キミなんて名前じゃないわ。それに質問するのはあたし。あなたたちこそ、何の用事よ」
「ボクたち? 若い男と女がひと気のないところですることなんて一つだよ。ねー、シン」
相手をしていると、それだけで日が暮れてしまいそうだ。シンは妙なテンションでひたすら嬉しそうなアニマをひとまず脇に放置することに決めた。
「シスターとクリーンの二人と話をしたいんだ」
「クリーン? だれよそれ。そんな人知らないわ」
嘘をついている様子は無い。
シンはクリーンの特徴を詳しく説明した。
「マックスのことかしら。いつもプレゼントを持ってきてくれる修道士の男の人なんて彼しかいないもの」
パルマコは熱っぽくマックスのことを褒めちぎった。その語り口には並々でない感情が込められていた。彼女が語る人物がクリーンのことを指しているとしたら、意外としか言いようがない。しかし、クリーンとマックスの特徴は酷似している。
「好きなの?」
「べ、別にそんなんじゃないわ。それは好きか嫌いかと言えば好きよ。嫌いな人なんていない。みんな首を長くして待ってるの。彼は私たちの希望の星よ」
アニマのストレートな質問に耳まで赤くして答えたパルマコだったが、その顔は喜びに満ちていた。
「なるほど。わかりやすい。ボクも気をつけないと」
神妙な面持ちで相槌を打つアニマ。
「何に気をつけるんだ?」
「うん? こっちの話。傾向と対策について」
そこはかとない言い回しがとてつもなく気になった。そしてそれはどうやらシンだけではなかったようだ。
「マックスはあなたなんか相手にしないと思うわ」
アニマの目がにんまりと細められた。
「自慢じゃないけど、ボクは誘われたことあるんだよね。それも夜のお誘いだよ。この意味わかる?」
シンの記憶に改竄がなければ、あの時アニマはうろたえまくっていたような気がする。都合の良い頭だとシンは感心した。
「男が美女に弱いのは万国共通だから仕方無いとは思うよ」
「お前が言うか……」
「いまのボクは女の子だからね。それを言う権利があるのだ」
アニマは胸を張って言った。性別を確かめるすべがないのが残念だとシンは思った。
「やっぱりあなたたちってバカっぽいわ」
パルマコはあきれたように言った。
「ついてきて。みんなのところへ案内してあげる」
スラムをさらに奥へと進んでいく。
道は舗装されておらず、ゴミがそこかしこに散らばっているせいで悪臭が鼻をつく。衛生状態は見るからに最悪だ。疫病が蔓延していてもおかしくはなさそうに思える。
いつもなら早々にステッキに腰を下ろすアニマが歩き続けている。どうやら本当に魔法が使えないらしい。
パルマコの足はなかなかに速い。子供の足とは思えないほどだ。シンでもついていくのに苦労するのだから、アニマは言わずもがな。しかし、パルマコが足を止めるまでアニマは一言も弱音を吐かなかった。
「ふーん。魔法だけじゃないのか。あたしは引き離すつもりでズルしてたのよ。やるじゃない」
「体力は、すべての、基本だからねっ」
膝に手をつき思いっきり肩で息をしている。
「ズル?」
「ついたわ。あとは好きにすれば」
パルマコはつまらなそうに言うと、シンの疑問には答えず離れて行った。
その先には難民キャンプが広がっている。
ろくに内情を把握していない人間が土足で足を踏み入れて良い場所ではないのかもしれない。
そんなシンの気持ちにはおかまいなく、アニマはパルマコを追いかけるようにして難民キャンプへと足を踏み入れた。
「シンも早くおいでよ。そんなところで棒みたいに突っ立ってると邪魔だよ」
「たまに凄いよな」
「ボクはシンのほうが凄いと思うよ。魔法使いでもないのに一緒に行動してるもん」
もしもアニマが魔法とは無縁の人間だったなら、二人の関係はいまとは全く別のものになっていたのだろうか。
シンは不意に浮かび上がったその考えを、即座に頭の隅へと追いやった。そして無意味な仮定だと自分に言い聞かせて打ち消した。
風が吹けば飛びそうなみすぼらしいテントの間を抜けた先でそれらしい集団に出くわした。好き勝手に遊ぶ子供たちを見守る一人の女性。その顔は遠目にも確認できた。シスターだ。
子供たちに混じりながら、しかし、あからさまに浮いている少女の姿も見てとれた。全身黒ずくめの少女は一人涼しそうな顔をして読書に励んでいた。
クリーンから聞かされていなければ、その神出鬼没さにまたも驚かされていただろうとシンは思った。
「ここまで来ておいてなんだけど……やっぱり行くのやめない?」
シンの背中に隠れるようにしてアニマが言った。珍しく弱気だ。腰が引けている。
「あそこには良くない空気が渦巻いている。そんな気がするんだ」
「戯けたことを抜かすでない。なんじゃ、そのざまは」
シンが目を離した一瞬の間に少女は瞬間移動していた。これまでとは雰囲気が違う。言葉遣いも仰々しい。
「わしの言いつけを破って飛び出したかと思えば、全く……」
「誰も頼んでないじゃん。放っておいてよ」
「そうはいかん。大事な跡取りじゃからな」
「二言目にはそればっかり! だから嫌なんだ」
どうやら二人は知り合いらしい。あまり良好な間柄では無さそうだ。説明が欲しいが、アニマはむくれて黙っている。
「迷惑をかけてすまんの。できるだけ見守るつもりじゃったが、そうも言ってられなくなったのでな。しかし大きくなった。シン殿、覚えておらぬか? まぁそれも無理のないことよ。なにしろ十年も前のことじゃ。わしにはひとむかし前のことでも、子供にとって十年は長い」
一方的に話しかけられてシンは当惑した。まるで面識のあるような話ぶりだ。
「ほれ、お友達が困っておるじゃろ。紹介ぐらいせんか」
「……若作りのくそババアこと、ミレニア・ヒートヘイズ。またの名を炎雷の魔術師。我が家の最高権力者。これでいい?」
「誰がくそババアじゃ。こんなに若くて可愛らしいババアがおるか。まぁそういうわけじゃ。よろしくの」
ほっぺたに両手の指を当てていかにも子供らしい笑顔をして見せた。その仕草が何よりもアニマの紹介に信憑性を持たせているようにシンには感じられた。子は親に似るとよく言われる。アニマとミレニアは確かに血が繋がっていそうだ。
「さて、紹介もすんだことじゃし、折角だから稽古をつけてやろう」
「いいから帰れ!」
アニマは頬を膨らまして不機嫌丸出しだ。
「そうは言うが、シン殿はまんざらでもなさそうじゃぞ」
実際シンは興味があった。伝説になるほどの魔術師から直接手ほどきを受けられるチャンスが空から降ってきたのにあえて拒否しようとは思わなかった。
「魔法のことだったらボクでも教えられるよ」
「お前の師匠はわしじゃがな。それにわし、アニマの体を元に戻す方法も知っておるんじゃが」
最後の抵抗も空しく追い討ちをかけられてアニマは沈黙した。
シンとしてはアニマの肩を持ちたい気持ちもあったのだが、目の前にぶら下げられた餌はあまりにも魅力的で拒みきれなかった。
「……裏切り者」
アニマの呟きは聞こえないふりをしてやり過ごした。
「決まりじゃな」
ミレニアは口角を上げた。