僕の悩める帰り道
現在、僕を悩ませているのはこの一万円札だった。
僕はこの一万円を、門限までに使い切らなければならない。
中学生の僕には一万円は大金だ。
使い切るアイディアはなかなか思い浮かばなかった。
「いらないって言ったのに」
お祖母ちゃん家に遊びに行ったら、お小遣いだよと渡された。
いらないと断ったが、ポケットに無理やりお金をねじ込んでくるお祖母ちゃんの強引さに勝てなかった。
「どうしよう」
このまま持ち帰ったらお母さんに怒られる。
前に貰った時もすごく怒られた。
僕がお金をもらうとお母さんが大変らしい。
がめついと思われるとか、お礼しなきゃいけないとか色々と言っていた。
「お祖母ちゃんに直接言ってほしいよ」
何で僕が怒られなきゃいけないんだ。
僕ははぁとため息を吐いた。
駅前のここから家までは徒歩で十五分。
時間はあとわずかしかない。
とりあえず、ここで悩んでいても仕方ない。
僕は歩きだした。
家に向かっておかないと、門限でも怒られる事になる。
駅前を離れ、商店街に入る。
何かを思いつくにはここが最後のチャンスだろう。
入ってすぐにケーキ屋が見える。
お祖母ちゃんからお土産にケーキを貰ったというのはどうだろうか?
ケーキ屋に近寄り、売り物のケーキを眺める。
イチゴケーキにチョコケーキ。
お母さんの好きなモンブランもある。
値段はだいたい三百円から四百円くらいだ。
一個四百円だと考えると……。
一万円で二十五個も買えてしまう。
これはダメだ。
二十五個のケーキなんてどう考えたっておかしい。
僕はケーキ屋から離れた。
他にもパン屋や八百屋が目に入る。
夕食に合わせて作られた焼きたてのパン。
おいしそうな色のリンゴ。
ケーキの他にパンや果物を合わせて買っても、量が多くなってお母さんに怪しまれるだろう。
そもそも、お土産なんて持ち帰ったら、お母さんがお祖母ちゃんにお礼の電話をかけてばれてしまう。
お土産は良いアイディアだと思ったけど、そうでもないらしい。
人ごみを抜け、商店街の真ん中辺りまで来た。
人通りが少なくなり、若干歩きやすくなる。
この辺りには本屋や電気店がある。
いっそ漫画とかゲームとか自分の好きな物を買ってしまおうか。
お店を見ていて僕はふとそんな事を考えたが、慌てて首を振った。
お母さんを相手に隠し事は出来ない。
ベッドの下や机の引き出しの奥など、隠していてもすぐに見つけ出され、隠し通せた事は一度もなかった。
だから、一万円を使わずにこっそりととっておく事も出来ない。
もうすぐ商店街の出口だ。
出口付近は飲食店が集まっている。
喫茶店にたこ焼き屋、クレープ屋もある。
一万円分食べてみようか。
ソースの良い匂いにつられて、僕はたこ焼き屋に近付いた。
一つ八個入りで八百円。
飲み物を買ったとしても、八十個もたこ焼きを食べなくてはならない。
これも無理だ。
そもそも、お腹いっぱいで帰って、夕飯が食べられなかったらばれてしまう。
「あああ、もう思いつかないよ」
もう商店街の出口だ。
ここから先は公園や民家しかない。
「ばれない事を祈ってもう隠すしか……」
半ば諦めた時、とある物が僕の目に入った。
「……これだ!」
これなら一万円が無駄になる事無く、証拠も残らず使い切れる!
足取り軽く、僕はそれに近付いた。
「ただいま」
家に着いた僕は、なるべく普通な態度を装い家の中に入った。
「お帰り」
いつもなら声だけしか返さないお母さんが、わざわざ玄関にまで出てくる。
「な、何?」
落ち着け。
落ち着いてさえいればばれないはずだ。
「出しなさい」
お母さんが僕に向けて手を出してきた。
「え?何を?」
心臓がドキドキと高鳴る。
大丈夫、かまをかけてきているだけだ。
「とぼけないで。お祖母ちゃんからお小遣いもらったでしょ」
ドキンと胸がはねる。
「何の事?」
声が震えないように気を付けて喋る。
声は変になっていないかな?
いつもどの位の高さの声で僕は喋っていたっけ?
「僕はお小遣いなんて貰ってないよ?」
おかしい仕草はしてないかな?
手はどの辺りにあるのが普通なんだろう?
気を付けの状態?
それとも身振り手振りを入れて説明すべき?
いつまでもここにいるのも変かな?
話を切り上げて部屋に行くべき?
それともここでこの話を終わらせておいた方が良い?
考えすぎて何が何だか分からなくなってきた。
ぐるぐると考えている僕に、お母さんの追い打ちがかかる。
「なら、お祖母ちゃんに電話をかけて確認しても良いわよね?」
これは考えてなかった。
頭が真っ白になる。
「確認してもし貰っていたらしょうちしないわよ」
やばい。
お祖母ちゃんが話してしまったらアウトだ。
今のうちに認めるべきか?
でも、お祖母ちゃんはお小遣いをくれる時に内緒にすると言っていた。
それなら、電話をしても大丈夫なんじゃ……。
お母さんが電話に向かう。
このまま黙っていれば、怒られずに済むだろうか?
いや、お母さんの誘導尋問は凄い。
世間話をしているつもりでも、いつの間にかお母さんの欲しい情報が引き出されている。
だから、僕はお母さんに嘘を吐き通せた事はない。
お父さんの嘘だって次々暴かれ、土下座しているのを何度も見てきた。
このまま黙っていて嘘がばれれば、僕はお小遣いを貰った事と嘘を吐いた事、この二つで怒られる事になる。
それはやばい。
お母さんが受話器を持った。
もう時間はない。
お母さんが番号を押し終わる前に決めないといけない。
お母さんの指がゆっくりと番号を押していく。
黙るか。
指は間違う事無く、迷う事もない。
謝るか。
ピポパと九つ目が押される。
あと一つだ。
お母さんがちらりとこちらを見る。
目が恐い。
もう限界だった。
「ごめんなさいいい!」
お母さんに勢いよく頭を下げる。
「貰ってないなんて嘘ですううううう!」
せき止めていた物が決壊した。
目頭が熱い。
ボロボロと目から涙がこぼれる。
もう謝る事しか思い浮かばなかった。
「嘘言ってごめんなさい!お小遣い貰ってごめんなさい!」
とにかく、ごめんなさいごめんなさいと何度も頭を下げた。
他の事にはかまっていられず、鼻水が出てもすする事も出来ず、僕の顔はぐしゃぐしゃになった。
カチャンと受話器を置く音がする。
顔を上げ、お母さんを見る。
お母さんの顔からは怒っているか読めなかった。
沈黙が恐い。
「ご……ごめんなさい……」
お母さんの無言に耐え切れず、もう一度頭を下げる。
上からため息が聞こえた。
「全部嘘だったのね」
「ごめんなさい」
お母さんの言葉にすぐ謝る。
「お小遣いも貰ったのね」
「ごめんなさい」
これは許してもらえるのだろうか?
「貰っちゃだめって言ったわよね」
「ごめんなさい」
言い訳はせずにひたすら謝る。
「次はきちんと断るのよ」
「うん、ごめんなさい」
どうやら許してもらえたようだ。
やっと顔を上げる。
「もう、汚いわね」
エプロンのポケットからお母さんがポケットティッシュを出した。
「きちんと拭きなさいよ」
ティッシュを受け取って、僕は鼻をかむ。
さらに二、三枚ティッシュを引き出して、顔全体を拭った。
「はい、お金出して」
お母さんが改めて手を差し出す。
「うん、ない」
「はい?」
僕はティッシュを丸める。
「ないってどういう事?何か買ったの?」
「ううん」
僕は首を振る。
僕は何も持っていない。
見たら分かるのに何故聞くのだろう?
「なら何か買って食べたの?」
「ううん、何も食べてない」
僕は答えながら玄関を上がる。
「じゃあ、お金はどうしたの。使ってないならあるはずでしょ?」
「ないよ。全部入れてきた」
「入れてきた?何に?」
「募金箱。全部募金してきた」
商店街の出口で赤い羽根募金をしていた。
一万円をその募金箱に僕は入れてきたのだ。
「え?募金って貰ったお金を全部?」
「うん!一万円も入れたら凄く感謝されたんだよ!」
募金のお姉さん達はビックリして何度もお礼を言ってきた。
せめて赤い羽根を多めに貰ってと言われたが、赤い羽根をたくさん持って帰ったらお母さんにばれると思って遠慮した。
「一万円も募金したの!」
「募金のお姉さん達が、僕が見えなくなるまで手を振ってくれたんだよ」
普段あんなに感謝される事などないから、とても嬉しかった。
「どうしたの?お母さん」
お母さんの様子がちょっとおかしい。
「い、一万円も……」
「お母さん?」
僕はお母さんの顔を覗き込む。
何だか顔が暗い。
「……募金しちゃいけなかった?」
お母さんがぱっとこちらに顔を向ける。
「そ……そんな事ないわ!募金はしちゃいけない事じゃないわ!」
お母さんがちょっと慌てている。
「募金は大事な事よ。そう、大事な事」
とりあえず、怒ってはいないようだ。
「ほら、外から戻ったのだからうがい手洗いしなさい」
「はーい」
僕は洗面所に向かった。
もう怒られる気配はない。
これで一安心だ。
洗面所に入り、蛇口をひねる。
僕はうがいしながら今日の夕飯は何か考えた。
台所からカレーの匂いが漂ってくる。
全然気付かなかった。
僕はわくわくしながら洗面所を出た。
以来、お祖母ちゃん家に行ってお小遣いを貰っても、僕が怒られる事はなくなった。