<9-1>真壁の部屋
真壁の部屋は閑静な住宅街に建てられたマンションの3階の角部屋。真壁は右のズボンのポケットからカギを取り出した。一瞬の躊躇が見て取れる。後藤はそれを見逃さなかったし、鳴門刑事は後藤が何かに気付いたのを感じた。意外なほどに重苦しく扉が開く。それほど古いマンションでもないだろうに、扉の隙間から瘴気が漂う。
「こりゃまた、すごいことに……」
下駄の男は、そうであろうと予測していたことに対して、予想を上回っていたことに反応しただけで、驚いたというよりかはあきれたという表情だった。後藤と鳴門刑事に緊張が走る。この感覚は『何かあるとき』のイヤな感覚。現場で遺体を発見するときのような、嫌な感覚が二人を襲った。思わず胸元のホルダーに手をかけたくなる。
「なんだ……いったい何がある?」
部屋の中は当たり前に薄暗い。日は落ちきっていないが、この部屋はカーテンを閉め切っており、外から光が入らない。真壁はゆっくりと部屋の中に靴を脱いで上がる。壁の電気のスイッチを入れると、部屋の中に明かりが灯る、が、灯りは弱く照明をつけたのにも関わらず霧がかかったような薄暗さの中で、キッチンの冷蔵庫が唸りをあげる。
「真壁、何かいるのか?」
後藤はどうしても聞かずにいられなかった。下駄の男にではなく、真壁に直接聞いたのは、意識的にである。どうせ下駄の男は、後藤や鳴門刑事がすぐに理解できる言葉で説明するような気はないとわかっていた。
「何も、居たりしませんよ。ただちょっと、鬱陶しいだけです」
「鬱陶しい?鬱陶しいだと?」
後藤は声を押し殺しながら、しかたなしに下駄の男を見た。結局この男に説明を聞かざるを得ないようだ。真壁は壊れかけている。
「まぁ、お主らしい言い草じゃな。存在は認めない。しかし、何か居るという感覚にはうそはつけない。もし、それを否定したら、自分の感覚を疑うことになる。そういうことじゃな」
下駄の男は下駄を脱いで部屋に上がりこみ、ずかずかと奥の部屋へと入って行く。
「おい、何を!」
後藤はどういうわけか体が動かなかった。明らかにこの空間は異常だ。刑事としての感と言うよりは、人間として、生物としての感性が、ここは危険だと叫んでいる。
およそ寝室であろうという奥の部屋の扉を下駄の男が開くと、瘴気はさらにその禍々しさを増した。異界の扉とは、きっとこういうものに違いない。
「気分が優れんようなら、この部屋には近づかんほうがいいぞ。命をとられることはないだろうが、流石にこれは身体にダメージが残るわい」
後藤はそれでもその部屋を覗かないわけには行かなかった。同時に鳴門刑事に命じる。「俺が行く、お前は真壁を見ていてくれ。様子がおかしい」鳴門刑事は一瞬不満そうな顔をしたが、従わざるを得なかった。それに、正直あの部屋を覗くのは怖かった。鳴門刑事は真壁の右腕を掴み、後藤に言った。「無茶しないでくださいよ。何か様子が変です……普通じゃないですよ」
後藤は鳴門刑事と真壁を玄関のところまで下げさせた。ふと、白いもやのようなものが視界に入る。後藤の吐く息が白く濁っている。「おい、おい、こりゃぁ、えらいことになってるなぁ」鳴門刑事はまだそのことに気付いていないようだ。「まぁ、いい、こんな経験はこれっきりだからな」
奥の部屋――後藤は部屋の入り口に佇む下駄の男のすぐそばに立った。立って部屋の中を覗いた。何か居る。何かはわからないが、何かがゆらゆらとゆれている。人の気配、気配だけはわかる。殺気はない。それどころかこちらに気付いていないようだ。お互いにお互いが見えていない状態。
「ほー、さすが長いこと修羅場をくぐって来ただけのことはあるようじゃな。気配だけはわかるか?」後藤は苦虫を噛んだような表情で部屋の中を見つめていた。「ワシには、この部屋がどんな風に見えてるか教えようか?」下駄の男は、何か意地悪なことを思いついた少年のような表情で後藤を見上げる。
「あまり、楽しそうな話じゃなさそうですが、聞かせてもらいましょうか?ありゃぁ、いったい何です?あそこには何があるんです?」
「死霊、幽霊、自縛零、怨霊……まぁ、俗に言うところは、そんな言葉じゃがな。みなグシャグシャじゃ」
「グシャグシャ……ですか?」
「そうとも、死んだときの姿のままよ。車にはねられたときの姿かたちそのままじゃ。つまり真壁に関わった三人。加藤、三河、山本じゃよ」