<8-2>禁止領域
真壁は顔すっかり青ざめ、何かに怯えるように身を振るわせ始めた。
「ワタシは……ワタシはただ……傘を……あいつらが勝手に……」
真壁はまるで寒さに凍えるように胸の前で腕を交差させて振るえる肩を抑え込もうとした。
「罪はない。が、非は認めるか。お主らしいのぉ、ワシは嫌いじゃないぞ。だが、推奨はできんがなぁ」
下駄の男は真壁を労わるでもなく、責めるのでもなく、諭すのでもなく、ただ淡々と真壁に語りかける。
「そもそもはワシのまいた種じゃ。条件がそろえば芽は出るし、茎も伸びて葉をつけ、やがては花が咲き、またそこから種を残すこともある。じゃから今回はワシが責任を持ってリセットをする。しかしのぉ、その後のことはワシの問題ではない。お主がこれまでどおりの生活に戻りたいと思うのならそれもかなおう。もちろん、そうでない選択肢もあるじゃろう。なんせ知ってしまったんじゃからのぉ。お主の住んでいる世界とは別の世界があるということを――『闇の世界』とでも言うべきか……」
真壁は思わず嘔吐しそうになった。下駄の男の『闇の世界』という言葉の響きに、今まで感じたことのない嫌な悪寒――言い知れぬ嫌悪感と底知れぬ恐怖からくる体の拒否反応としての身震いをした。
「まぁ、首を突っ込んでいい事と、悪い事がある。これは間違いなく後者の領域じゃ、触れてはならないメモリーバンクじゃよ」
下駄の男に言葉に真壁は更に驚かされる。
「メ、メモリーバンクですか、いやぁ、なるほど、こいつは、ははは、こいつは参ったな、書込み禁止領域ですか、くっくっくっくぅ、なるほど、そりゃ祟る訳か」
「まぁ、しかし、人の記憶や体験はそんなに簡単なものじゃないからのぉ、それに今お主が抱えている問題は、お主が思っている以上に深刻で、しかもあまり時間がない話なんじゃ。できれば今日中に処理しないと、ちとマズイことになりそうなんじゃよ」
真壁は自分が少しだけ落ち着いたことを認識した。思えばあの日、あの夜、非日常の扉を開けて以来、真壁はある一定以上の緊張感とストレスに耐えながら生活をしていた。自分の周りで起きていることの非現実性と日常の中に潜む、非現実性――毎日、己のルールに従い、同じようなことを繰り返す毎日こそが、実は普通の人間の生活とはかけ離れた『非日常的な生活』とも言える。自分らしくあることが、日常的なストレスになっているという自覚は少なからず真壁にはあった。だが、この『下駄の男』と出会いは、そうした真壁の閉塞感を一気に解放するような刺激であったかもしれない。しかし、所詮、一般的な日常からはかけ離れた世界のことである。日常的なストレスが新しいストレスによって一時的に開放されたとしても、そう長くは通用しない。やがて強烈な副作用として、自分に返ってくるに違いないのだ。
この男、この下駄の男なら、今の自分を何とかしてくれるかもしれない。自ら出口のない迷路に入り込んだのだ。今更、誰にも助けを求めるわけには行かない。だが、下駄の男ならば、そういうことを頼めるかもしれない。この男には自分の弱さを見せても構わないという安心感がある。いや、安心感と言うよりは心地いい敗北感だろう。この男には得体の知れない強さを感じる。自分とは生きている場所も時間軸もどこか違うような気がした。勝てる気がしない。
「ワタシはどうすれば……何をすればよいのでしょうか?」
真壁はある種の緊張感のほぐれからか、張り詰めていたものが途絶えた瞬間に改めて自分の身体の不調を自覚した。精神は緊張と論理的な処理によってなんとかシステムダウンせずに保ってきたが、その作業は身体にかなりの負荷をかけていたのか、冷静になると、自分の身体がいかに異常な状態にあるかを認識させられる。吐きそうだ。今にも倒れてしまいそうで、意識を保つ事が難しくなっている。視界が狭くなってきている。
「イヤだとは思うがな、お主の部屋に邪魔させてもらうことになる。このまままっすぐにだ。それと、もう一人、この件に関わっている者がおるんでのぉ、その者の許可なしには、いろいろとうるさくてのぉ、それにその者を頼りにしておけば、わしとは別の面で、お主の助けにもなるはずじゃ」
もはや真壁は下駄の男の言っていることの半分も理解できていなかった。ともかく部屋まで何とか歩いていかなければならないことは理解できた。それで精一杯だ。不意に携帯の音が鳴る。下駄の男の携帯だ。
「あー、そうじゃ、今真壁と一緒におる。大丈夫じゃ、これからじゃよ。そっちはどうじゃ。うん、うん、そうか、まずまずじゃなぁ。が、しかし、安心はできんか。どちらにしても命に関わる問題じゃからのぉ。何があるかわからんが、優先すべきはこっちの方じゃ、時間がない。急いで来てくれんかのぉ、あー、場所はのぉ……」
ブーン、ブ、ブ、ブン、ブ、ブーンッ!
下駄の男が、今いる場所を言いかけたとき、その声は2台のバイクの爆音によってかき消された。大通りから小さな路地に少し入ったところ――街中のエアポケットのような人気のない暗い通り――機会をうかがっていたかのように背後からいきなり2台のバイクが爆音を上げて真壁と下駄の男に向かって突進してきた。それはまるでネコ型肉食獣が獲物を襲う様子そのものである。
「クゥッ、間に合わなかったようじゃな」
下駄の男はそう独り言を言ったのか、或いは電話の先の後藤に向かって言ったのか、電話口から「どうしました!大丈夫ですか!」という怒号が聞こえたが、下駄の男はそれを無視するかのように携帯を切り、身構えた。
「フン、邪鬼が!」
バイクはもう、目の前まで迫っていた。