<1-3>標的
罪の意識を感じないのかと問われれば、答えに窮しただろう。だが、それをワタシに問える人間など存在しない――ただ一人をおいては……
最初のときは驚きと恐れと後悔だった。あの日、下駄の男によって持たさされた特別な力――傘を置き忘れたりしてもかならず持ち主のもとに戻るという信じがたい『魔法』は、ワタシに傘に対する愛着を更に深いものにした。何か特別のいわくがある傘ではなかったが、下駄の男――ひょうひょうとして、どこか捉えどころのない不思議な男が『まじない』をかけた日から、特別な傘になったのだが、それでもそれは『ないよりはまし』という程度のことでしかなかった。
ある日、ワタシの傘が盗まれた。その盗んだ男は過去に下駄の男の傘を盗んで、ちょっとした『御仕置き』をされたにもかかわらず、また同じ事をしたのだ。その男はワタシの傘を盗んで1分もしないうちにこの世を去った。車にはねられたのだ。道路を渡ろうとして駐車している車と車の間から飛び出したところを乗用車にはねられたのだ。打ち所が悪かった。
この事件がきっかけでワタシの傘は特別な傘になった。この傘が盗んだ者に対してあまりにも過剰な反応をすることに驚き、それを自分が所有していることに恐れ、そしてあの日、下駄の男に出会ったことを後悔した。
しかし3日後には、驚きはなくなり、恐れる必要はないのだと自分に言い聞かせた。だが、後悔はしている。それは『なぜ下駄の男に出会ってしまったのか』ではなく、私が『ワタシ』であることへの後悔である。つまり『ワタシ』という人間は、このような状況に置かれたとき、この傘を始末するわけでもなく、家の押入れにしまいこむのでもなく、以前となんら代わり映えのしない平凡な日常を過ごしている。
いや、平凡ではない。まるで狩をするハンターのように、或いは不正を正す番人のように冷たく世間を見つめるようになった。
今まで見て見ぬフリをしていたものに対して注視し、よりワタシが心地よく過ごせるように『努力』をするようになった。だから下駄の男には感謝している……ということになるのだが、はたしてそのことにはやはり自信がない。あの男が今のワタシの行いを知ったら、果たして……
「ちぃっ!」
招かれざる客は、携帯のメールを見るや食べかけの料理には目もくれずに席を立った――間違いない。この男はきっとやる。
レジで勘定を済ます。
「毎度ありがとうございます」
店員がどんなに愛想よくつり銭を渡しても、まるで無反応だ……外の雨にしか関心がないようだ。招かれざる客は、居心地の悪いと事から、更に居心地の悪いところへ行かなければならないことに対する不快感を隠すことはしなかった。店のドアを開ける。傘置き場には似たような黒い傘が何本かさしてある……持ち主でなければ、ほぼ区別をすることは不可能だろう。男はその中から一本の傘を手に取り傘をさす。しばらくさした傘を眺めてから店の前を離れた。
ワタシは読んでいた小説を丁寧にかばんにいれ、席を立った。
「ご馳走様」
心のそこから感謝しているわけではない。親に教わったからでもなければ、学校で教わったからでもない。これは礼儀というよりは流儀の部類だ。すばやく勘定を済ませる。店の外に出る。ワタシの傘はそこにはない。でも大丈夫、ワタシの傘は必ず帰ってくるのだから……
キキィィィィイ!
ドォオオオン!
誰か、誰か救急車を!
激しく降りしきる雨の中、一本の傘が開いたまま、くるくると独楽のように回っている。