<5-3>異変
「あの~真壁さん、どうか、しましたか?」
真壁直行、江戸川区内で大手金融機関の基幹システムの開発の一部を担当している古参のプログラマー。もちろんもともと古参だったわけではない。大学の経済学部を卒業し、今の会社に就職したのだが、当時はまだITなどという言葉はなかったし、コンピュータはまだまだ一般的なものではなかった。一部の学生が人気のゲームソフトをプレイする為に高額なパソコンを手に入れるのに食費を削り仕送りを浮かしたり、アルバイトを二つ掛け持ちしたりしていた。
「なんだか少し顔色が悪いですよ」
真壁は5人ほどの部下を持ち、彼等の作業進行を管理し、自らもプログラムを担当していた。同期に入社したものは、その後他の企業にヘッドハンティングされたもの、リストラされたもの、自分で小さな会社を立ち上げたもの、様々であるが、今では真壁一人になってしまった。
「もし、具合が悪いようでしたら、今日は大丈夫ですよ。スケジュールもだいぶ追いついてますし、ボクらでなんとかなりますから」
この仕事がしたかったかといえば、そうではないかもしれない。しかし、ゲームソフトの開発などというものはその当時はまだまだ未成熟な業界だったし、趣味と仕事を一緒にするのは、どうにも真壁のまじめさが許さなかった。
「真壁さんって、本当、まじめっていうか、きっちりしているって言うか、まぁ、悪く言えば融通が利かないといえるけど、プログラマーはそのくらいがちょうどいいですね。特にこういうお堅い分野では」
会社の同僚の評判は総じて信頼できる上司、尊敬できるプログラマーであったが、それ以上ではなかった。ただ、真壁の映画評は、同僚の中でも非常に人気があった。真壁の映画に対する分析力、監督、脚本、俳優に関する造詣の深さはみんなに一目を置かれていた。
「あー、この前、真壁さんがダメだししていた例の映画、DVDで見ましたけど、いやー、真壁さんの言う通りですねー。事前に聞いていた分、期待値が低かったから良かったですよ。あれは失敗作ですよねー。」
昼食は近くの定食屋やラーメン店、ランチ営業をしている居酒屋で2~3人で食べる。話題は大体が映画の話か、或いは上司の悪口だった。
「部長は今、営業に出てますから、僕らから説明しておきますよ。真壁さん、夏休みも結局とらなかったでしょう。なんかあったときに連絡取れるようにして置いてください。えーと、あれ?真壁さんの携帯、知ってましたっけ?」
真壁はプライベートで同僚と連絡を取ることはほとんどない。真壁が会社にいる限り、どんなトラブルも大よそは解決するし、真壁のパートでトラブルになることはほとんどなかったし、あったとしても解決にそれほど多くの時間を要することはなかった。真壁の仕事はほぼ完璧といっていい。
「すまない。今日は引き上げさせてもらうことにするよ。そうだな。最近少し眠りが浅くてね。少し寝不足なのかもしれない。悪いな。じゃぁ、失礼するよ」
真壁は同僚の勧めで会社を早退することにした。同僚たちは真壁が退社すると噂話を始めた。
「真壁さん、最近やばいんじゃないのか?」
「あー、なんか最近、ブツブツ独り言増えたよなぁ」
「顔色も悪いし、なんかさぁ、オカルトな感じだよな」
「おいおい、あの真壁さんに対抗できる幽霊なんてこの世に存在しないと思うぜ」
「まったくだ。幽霊に向かっていろいろ理屈並べて、最終的には成仏させそうだよな」
「まぁ、オレだったら間違っても真壁さんに取り付いたりしないぞ」
「どうかな、意外と居心地良かったりして」
「えー、なんでさ?」
「そりゃー、世の中には真壁さんみたいにこだわりがあるからこそ、成仏できない幽霊だっているだろう。そんな幽霊はきっと、真壁さんと波長があって……」
「やべー、オレ、今すごいもの想像しちゃった。こえー」
「うわぁー、ある意味地獄だなぁ」
真壁は会社を出たものの、こんな時間に家に帰っても、果たして状況が良くなるとは思えない……むしろ悪くなることが明白だった。
「困ったなぁ。さて、どうしたものか……」
真壁は当てもなく街を歩き始めた。そこにはいつもと変わらない街の風景があり、いつもと変わらない、そこに溶け込むことができない真壁があった。
「この街も、住みにくくなった」
真壁は青く澄み切ったわざとらしい青空に向かってつぶやいた。
「また、雨、降らないかなぁー、そうすれば……」
そうすれば、また少しだけ街がきれいになるかもしれない。この白々しい青空にどんよりとした雨雲が現れ、雨が街の汚れを洗い流してくれる。
「しかし、そうなると、また一人客が増えるなぁ」
もはや真壁は、何を後悔すべきか、わからなくなっていた。