<1-1>午後の雨
「ふー、ひでー雨だなぁ」
ラーメン店に入ってきたその男は、招かれざる客であった。人は見た目で判断してはいけないと、子供の頃に教えられた。しかしそれは、時と場合による。家に風呂がなかったワタシは、週に3回、近所の銭湯に通っていた。
大人は『見た目で人を判断するな』と子供に言いう。それも時と場合によりけり。背中に絵の描いてある男の近くには、一定の空間ができていたし、『ねぇ、どうして背中に絵が描いてあるの?』と竜や虎の絵に向かって指をさす子供の指は、保護者によって目立たないように無理やり下げられる。
人に指をさすんじゃない――問題がいとも簡単に挿げ替えられる。
我々の社会は常にダブル・スタンダードの中にある。それは決して忌むことではない。世界は一つではなく、幾多にも分裂し、分かれ、互いが干渉しあっているのだ。グローバル・スタンダードなどというものが必要とされること自体が、多種多様の規範が存在することを証明している。
招かれざる客は、明らかに我々――店員3名、カウンターの奥の席に座るワタシと、二つ席を置いてサラリーマンらしき2人組み、テーブル席の学生3人組みとは違う世界に生きていることがわかる。頭のてっぺんから足の先まで、刑事ドラマに出てくるようないわゆる『かたぎ』ではない人間だった。
「餃子定食とビールくれ」
店員が水を運ぶよりも早く、大きな声で自分の要求を相手に伝える。男の存在に気付いていなかった学生3人組は一瞬会話を止めた。だれもヴォリュームを揚げていないのに、テレビの音量が上がったような気がした。
「現在、東京地方に大雨洪水注意報が出されております」
夕方の情報番組では新宿や渋谷、品川の駅周辺の映像を流している。新宿はまだ降っていないらしいが、品川はかなりの雨だ。そしてついさっき、このあたりも強い雨が降り出した。
ワタシは外出先からの帰り、昼飯を食べ損ねたので遅い昼食をこの店でとることにした。
セットメニューは注文しない
近所の書店で衝動買いした――それを衝動買いというのかどうかはわからないが――スティーブン・キングの短編集を読みながら、背油の浮いたこってりした醤油ラーメンを食べていた。男が訪れた時点で麺は食べつくし、スープをすすっていた。ここからが長い。麺を食べながら本を読むと、どんなに慎重に食べてもこってりの油を含んだスープの汁が本に飛び散る。ワタシはそれが許せなかった。だから麺を食べ終わってから本を読み始める。無論、スープを最後まで飲みきるという、ワタシなりの作法、美味いものを食べさせてもらったことに対する礼節は尽くさねばならない。
キングは短編がいい。それにワタシのライフサイクルには長編は向いていない。と、いうよりはこうして外で食事をしたり、移動の合間にしか本を読まないワタシにとって『ダーク・タワー』は長すぎる。
家では小説を読まない
学生の頃から本を読むことにはあまり関心はなかった――というより嫌いだった。社会人になり、移動時間の暇つぶしにたまたま買った本がキングの短編集だった。短編といってもキングの短編は映画の原作の宝庫だ。最近のものでは『ミスト』が良かった。ワタシは何度も繰り返してみた。実に興味深い作品だ。あのシチュエーションを妄想するのは実に楽しい。
たとえば今、この店に閉じ込められたらどうなるか……おそらくあの招かれざる客を中心に話は進むだろう。カウンターを仕切っているあの店員は結構当てになるかもしれない。よく店を切り盛りしている。多分……最初の犠牲者は先ほど注文を採りに来たバイト君だろう。君は真っ先に「様子を見て来い!」と招かれざる客に命令されて、異形のものの餌食になるだろう。
「うー、あちぃなぁ」
招かれざる客は、急な雨に降られて慌てたのだろう。この店に入ったのは、予定の行動でとはちがうのではないだろうか。腕時計――自己主張が過ぎる、ワタシの嫌いなタイプの腕時計を何度か見ながら「まぁ、いいか」とつぶやくと、カウンターに置いてあったスポーツ新聞を広げて注文の品が届くのを待っている。
雨宿り……か。
予定変更だ。
まぁ、いい、確立は……今日の降水確率ほどではないが、条件はそろっている。あとはあの男次第だ。決めるのは、ワタシじゃない。