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リヒテルヴァルト、という侯爵は妙な男である。
とりあえず、城に連れてゆき、必要な書籍のある執務室と私室を与えたら、他は要らぬと言い出した。
"私邸などいらぬ、病院と孤児院を其れなりに立派にしてくれれば好きな時にそこに帰るからそれでいい。領地に屋敷も要らない。財産はカールが管理し、必要な経費を病院に回してくれればいい。わたしはカールを守るのが仕事だから、ほいほい遠くに行かれても困るだろう?"
欲がない、というより面倒くさい、という方が正解のようだった。
欲がない、といえば、男子なら大概の者がのぞむ立身出世というものにも興味がないらしい。
政務会議に一度出席させてみたが、スフィルカールの後ろの席でわずかに目元だけあらわにした覆面姿で座って黙ったまま何も発言しなかった。あの風体でだまって座られては、他の政務官は落ち着かないし、街で見聞きした情報も得たいし、第一侯爵だろうとリュスラーンが言ってみれば"わたしはカール自身を守るのが仕事だろう。治水工事の相談なんぞ知らん。必要なことは直接聞いてくれればわかる範囲で答える"ということで、基本は会議にも出ないことにしたらしい。多少の手伝いでもしてくれるかと内心期待していたらしいリュスラーンにとっては期待はずれもいいところのようだった。ただ、リュスラーンが少々面倒くさく思っている科目の勉強を代わりに見てくれるようになったのだけは助かったらしいが。
古典文学
歴史
音楽
どれも一般教養だが、だがそれはわりに上流階級の者にとってのことだ。どうしてこれらの知識があるのかとスフィルカールが尋ねたら、さあ?と首をかしげられた。
"昔、どこかで学んだのだろう"
という程度しか答えない。
だが、この男が勉強を見るようになってから、一気に課題のレベルが上がったのでスフィルカールは少々手を焼くことにはなった。
その他、普通の書籍の文字は左手でなぞれば読めるらしく、白い紙に定規をあててやれば流麗な字も書く。ウルカがいないため、少々移動に手こずるようだが、一二度同行してやれば、あとは自分で行動できるらしい。
カールを守るのが仕事、というだけに、城の警護や彼の私室の状況についてはしっかりとやってくれた。
魔術師の呪法を確認し、これ以上闇の勢力が城に影響を及ぼさない方策を幾つか立て、施した。
城の魔術師は多くはないが、もともとは人当たりが良い男らしく、彼らとも仲良くやっているようだ。第一、"カール様の呪いを解いた"という事実だけで十分すぎるほどの尊敬を集めていたのだ。
どういう話になったのか、それまで招聘していた魔術師は一人も来なくなった。
リュスラーンもフェルナンドも、城の魔術師の中で最も年長にあたる者もスフィルカールに何も言わないあたり、本当になんとか上手く言いくるめてくれたのだろう。
いつまでもあの男、ではまずいので、スフィルカールは呼び名をつけた。
「シヴァ、でどうだろう? 真名は知らぬから、わたしが本からお前に合うような響きを選んだつもりだ」
"・・ふむ。まぁ、良いだろう。好きに呼べ"
「では、シヴァ、お前の居た地区の病院と孤児院の改築は約束通りすぐに進めて、そろそろ完成するそうだ。」
"ウルカから聞いている。懇意の医師とも連携して上手くやってくれているそうだな。皆も喜んでいるという話だ。"
ウルカとシヴァは、離れていても連絡が取れるらしい。
だが、彼の眼や声を借りるには少々離れ過ぎているからまだ見ていないとシヴァは答えた。
「じゃあ、今日行こう。わたしも見たい。」
呪いが解けてから、めっきり子供らしい笑顔が増えたとリュスラーンとフェルナンドが言うようになった。
その声の響きで、笑顔らしいとわかると、シヴァは口の端をゆるめ、ぽんとスフィルカールの頭をなでる。
その居心地の悪さに、すこし逃げ腰になるとシヴァは手を放し、指で空に文字を書いた。
"そうか。では行こう"
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「あっ。先生!! 先生が来たっ。みんなーーっ、先生がきたよーーー」
子供の声に、シヴァが破顔したのがすぐにわかる。
無精ひげもなく、小ざっぱりとした質の良い衣服のシヴァの姿に、子供達は何の躊躇もなく飛びついてくる。
「先生、御帰りっ」
「何処行ってたのー?」
「先生、良いにおいー」
いつものように、一人ひとりの頭をそっとなでてやっていると、なにやら、えらくべらんめぇな口調の男の声が響いてきた。
「おーーう、先生。ウルカに聞いてびっくりしてたところよぉ。おめぇ、侯爵になっちまったんだって?」
"名ばかりだ。財産はこの子に押さえられている。・・・施設の塩梅はどうだ?"
するすると指が文字を刻み、男に返答する。
がに股のいかつい顔の男が近づきざま、シヴァの背をどしっと叩いた。たまらず、シヴァは肩を押さえる。
がっはっはと豪快な笑い声で男はシヴァの肩を抱く。
「おうよ。立派なもんよ。俺の診察室まできっちりこさえやがって。ちょうど良いから、俺も此処に住み込むことにしたよ。一般患者もあわせて見ることにしたらちった収入になるしな。子供の中には見込みのありそうな奴もいるから、助手として育てる仕組みも作ろうかと思ってる。・・これからの切り盛りは任せてくれや」
"うむ。頼むよ。"
「シヴァ、この者は?」
口を挟んで訪ねると、シヴァは男の肩を叩いた。
"オズワルド・アーロンゾという街の医者だ。前からここの患者の面倒を見てくれている。ここの切り盛りを任せることにした。さしずめ、施設長、というところか。オズワルド、ラウストリーチ公王だ。ここの主たる経営者、ってところかな?"
その言葉に、へーーーえとオズワルドは目をむき、スフィルカールにずいと顔を近づけた。
「お前さんかぁ、ふらっと現れていきなり先生連れて行ったってナージャが文句言ってたガキ。いやぁ、太っ腹だ。お前さんの役にたたねえ奴ばかり集めたここに金落とそうって話だからな。まぁ、ガキ100人の内お前のために働く奴が一人くらいいるかもぐらいの気分でよろしくたのむわ」
「別に一人として役に立たなくとも気にしていない。ここの者がわたしにとってどういう存在なのか、その答えを見つけるための投資だからな。オズワルド、よろしく頼む」
「へえ、ガキの癖にしっかりしてやがる。」
"子供のくせに、上っ面ばかりがしっかりしているだけだ。・・・そういえば、ナージャは?"
その言葉に、オズワルドは、苦笑いを見せた。
「あいつだけはなぁ・・。ここの展開の早さについて行っていないみたいでな。ふてくされてるさ」
「ナージャとは、あの金髪の?」
「そうよ。魔法使いのガキで、ナザールという呼び名だ。大概の奴はナージャと呼ぶがな」
「わたしが、シヴァを連れて行ったと、ふてくされているのか?」
「ぶすくれてほとんど部屋から出てこない。・・例の話も聞く耳を持っていないぞ」
ウルカの声に、シヴァはその方向へ首を向け、肩を落とした。
「せめて、あいつを納得させてから行けばいいものを。いきなり消えるからしばらくは魔力も不安定で大変だった。・・・・魔術師見習いどころじゃないぞ」
「魔術師見習い?」
スフィルカールが首をかしげると、シヴァはうなずく。
"リュスに、彼を宮廷魔術師の見習いとして入れてくれるかと聞いて了解を得たのだ。・・・彼は、聖なる力に恵まれている。ちゃんと勉強させてやれば良い魔術師になると思っているのだが。"
「・・せめて、お前の口からちゃんと説明してやれ。さすがに、あの落ち込みようは吾にも不憫に見える」
ウルカの言葉に、シヴァはわかったと答えた。