2話 不眠公爵ヴィクター・グランハート②
馬車に揺られて数日、ようやくグランハート公爵領に辿り着いた。
窓の外を見ると、針葉樹が生い茂る森が続いている。標高が高いため王都よりも気温が低く、かなり肌寒い。
やがて馬車が止まり、目の前に大きな屋敷が見えてきた。
黒い石造りの、重厚な佇まい。威圧感すらある立派な建物だった。
「初めまして。アリス・エヴァンスと申します」
馬車を降りた私は、出迎えてくれた男性に向かって頭を下げた。
その人は、私より少し年上くらいに見える。優しげな笑みを浮かべていて、きちんと整えられた執事服を着ていた。
「お待ちしておりました。私、ヴィクター様の側近のオリバーと申します」
オリバーと名乗った彼は、私の荷物に視線を向けた。
「お荷物はこれだけで……?」
私が持っているのは、小さな鞄ひとつだけだった。
洋服もすべてベアトリスの物になってしまっていたから、数着の着古したワンピースと下着くらいしか持ってきていない。
「はい。そうですが……?」
オリバーさんは少し困ったような顔で首を傾げたけれど、何も言わずに鞄を受け取ってくれた。
「それでは、中へどうぞ」
屋敷の中に入ると、広い廊下が続いていた。けれど、人の気配が全くしない。
がらんとした空間に、私の足音だけが響く。
「使用人が全くいないでしょう」
「は、はい」
オリバーさんは、少し申し訳なさそうに笑った。
「ほとんど辞めたんです。主人が怖すぎて」
「えっ」
「住み込みは私だけです」
この広さの屋敷なら、住み込みの使用人が何十人といてもおかしくない。
掃除や料理は派遣メイドで賄えるかもしれないが、あまりにオリバーさんの負担が大きすぎるのではないか。
(使用人が辞めてしまうほど恐ろしい公爵様とは一体……)
胸がどきどきと高鳴っていく。怖い、という気持ちよりも、むしろ興味が湧いてきた。
「どうぞ、ヴィクター様はこちらにいらっしゃいます」
オリバーが案内してくれたのは、書斎だった。
扉をノックして、中へ入る。
「ヴィクター様。新しい婚約者様をお連れいたしました」
部屋の奥で机に向かっていた人物が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「初めまして。アリス・エヴァンスと申し――」
「帰れ」
挨拶の途中で、冷たい声が飛んできた。
彼の顔でまず飛び込んできたのは、目の下の不健康そうなクマだった。
つやつやとした黒い髪に、ルビーのように真紅の瞳。整った顔立ちは確かに美しいけれど、その表情はひどく不機嫌そうで。
確かに、声がでてしまいそうになるほどの威圧感がある。
「女の声はうるさい。頭に響く」
ヴィクター様はそう言うと、再び机の方へと向き直った。
「ヴィクター様、またそんなことをおっしゃって。王太子殿下が気を遣って、新たに令嬢を選定してくれたのですよ」
「いつものか。つまらん」
ヴィクター様は、私を見るなり盛大なため息をついた。
(なんか、疲れている……?)
目の下のクマといい、怒っているというよりも疲れているような印象を受ける。
確かに、疲れているときに高い声は響くだろうな、と私は思った。
「ヴィクター様、それではこの声のトーンではどうでしょうか」
「……は?」
私がなるべく落ち着いた声で話しかけると、ヴィクター様はきょとんとした顔でこちらを振り向いた。
「先ほど、声が頭に響くとおっしゃいました。これくらいの声の高さであれば、いかがでしょうか」
その瞬間、オリバーさんが吹き出した。
「……ふっ、あははは」
彼は笑いを堪えきれないといった様子で、肩を震わせている。声を上げながら、彼は涙を拭う。
「ア、アリス様。ヴィクター様と会話されたのは、貴女がはじめてですよ」
「えっ、なぜですか?」
意味がわからなかった。
確かに怖そうな見た目だが、誰かみたいに癇癪をおこして本を投げつけてこないだけマシではないか。
「怖くないのですか、ヴィクター様が」
「だ、だって。今後、こちらで生活させていただくことになるのですよ。それだけでありがたいというか」
こんなに綺麗で広い屋敷で暮らせて、熱い紅茶をかけられない生活。使用人以下の暮らしをしいられない生活。
(……なんて素晴らしいんだろう!)
そう思っていたら、ヴィクター様が変なものを見るような目で私を見てきた。
「なんだ、お前……」
「変なこと言いましたか。私……」
私が戸惑っていると、オリバーさんがニコニコしながら間に入ってきた。
「いえいえ。それではお部屋にご案内させていただきます」
◇
オリバーさんに連れられて、長い廊下を歩く。
途中、大きな窓から外を見ると、手入れされた庭が見えた。冬だというのに、真っ赤な薔薇が沢山咲いていた。
「こんなに寒いのに薔薇が咲くんですね」
「魔法花の一種で、一年中綺麗に咲く薔薇なんですよ。観賞用です」
私は、へえ、と感嘆の声を漏らす。さすが、魔力で溢れかえっている筆頭公爵家の邸宅だ。
「こちらがアリス様のお部屋です」
案内された部屋の扉を開けた瞬間、思わず息を呑んだ。
天蓋付きのベッドには、白いレースのカーテンが掛けられている。
柔らかそうな羽毛布団に、ふかふかのクッション。
壁紙は淡いクリーム色で、ところどころに小さな花の模様が描かれていた。
窓際には白い木製の机と椅子が置かれていて、本棚には何冊もの本が並んでいる。
「……わぁ、すごい!」
クローゼットを開けてみると、中には何着ものワンピースが掛けられていた。
いつか住んでみたいと思っていた、お姫様のようなお部屋だった。
「こ、こんな素敵なお部屋に住めるんですか!」
「ええ。アリス様のご趣味を伺っておりましたので、レイアウトさせていただきました」
「ここ、全部、私の部屋ですか!」
「……ええ」
私は、不安になってくるりとオリバーさんを振り返った。
「利用料なんてとられませんよね」
「どんな暮らししてたんですか、あなた」
あまりにも確認を重ねるものだから、オリバーさんはいよいよ呆れたような顔をしていた。
「では、このあと夕食のお時間までゆっくりお寛ぎください」
オリバーさんが部屋を出ていくと、私はベッドに駆け寄った。
恐る恐る腰を下ろすと、ふわりと身体が沈む。柔らかい。こんなベッド、初めてだった。
天蓋のレースカーテンを触ってみる。繊細な刺繍が施されていて、丁寧に作られているのがわかった。
(本当に、私がここに住んでいいのかな)
胸がいっぱいになって、思わず頬が緩んだ。
ベアトリスに取られてしまったドレスのことも、叔母の冷たい視線も、今はどうでもいい気がした。




