1話 不眠公爵ヴィクター・グランハート①
「ねえ、アリスー、早くお茶持ってきてよ」
「わかった」
私は立ち上がると、用意しておいた紅茶のセットを手に取り、ベアトリスの元へと向かう。
「『わかった』じゃないでしょ。『承知しました、ベアトリス様』でしょ」
私の返事が気に入らなかったのか、ベアトリスは不機嫌そうに眉をひそめた。金色の巻き毛を揺らしながら、ソファに座ったままこちらを見上げてくる。
「……承知しました、ベアトリス様」
私は小さくため息をつきながら、言い直す。ベアトリスは満足そうに笑うと、私が差し出したカップを受け取った。
私、アリス・エヴァンスは10歳の時に、叔父の元に引き取られた。
かつて伯爵だった父と、その妻だった母は、私が12歳の時に魔獣に襲われて命を落とした。
一人残された私を引き取ったのは、父方の叔父――ロバート・エヴァンスだった。父の伯爵位を継いだ彼に連れられて、私は王都の屋敷へやってきた。
けれど、残念ながら私は全く歓迎されていなかった。
叔母からは冷たい視線を向けられ、従姉妹のベアトリスからは毎日のように嫌味を言われる。些細な嫌がらせは日常茶飯事で、びっくりするほど、私の居場所はこの家になかった。
叔母とベアトリスに限らず、叔父も私と進んで会話をしようともしなければ、助け舟を出してくれることもない。ただ最低限の衣食住を与えられているだけだった。
「なにこれ、まっずい。代わりにアリスが飲んでくれない?」
ベアトリスは先ほどの紅茶を一口飲むと、顔をしかめてカップをテーブルに置いた。そして次の瞬間――
ざばあ、と。
熱い紅茶が、私の顔に降りかかってきた。
「っ……!」
思わず目を閉じる。水色のドレスが茶色く染まり、顔や髪からは紅茶が滴り落ちた。熱さに思わず身体が震える。
「ベアトリス、やり過ぎだ」
その時、低い声が響いた。
部屋の入り口に立っていたのは、叔父だった。
「えぇ? だって、魔力無しのために家まで用意してあげてるんだよぉ? これくらい、いいじゃない」
ベアトリスは不満そうに唇を尖らせた。
――魔力無し
私がこんなにも虐げられている理由は、それだった。
この国の人間は、みな魔力を持って生まれてくる。貴族も平民も関係なく、生まれた時から魔力を宿し、成長と共にそれを使いこなせるようになっていく。
炎を操る者、水を操る者、風を操る者。魔力の強さや属性は人それぞれだけれど、少なくとも「魔力を持たない」人間など、めったに存在しないはずだった。
(でも、私には魔力が全くなかったんだよね……)
神殿に通い詰めて魔力測定の儀式で何度測っても、私の数値はゼロ。
魔力がなければ、まともな仕事に就くこともできないうえに、嫁ぎ先も見つからない。
正真正銘の出来損ない。それが私だった。
「……床が濡れるから、部屋に戻って着替えろ」
叔父はベアトリスを咎めることはせずにそう言うと、そのまま廊下の奥へと消えていった。
私は紅茶で濡れた服を押さえながら、黙って部屋へと戻る。
このまま、私はどうなってしまうのだろう。
魔力のない私に、未来などあるのだろうか。
そんなことを思いながら、私はとぼとぼと自室に戻るのだった。
◇
それから数週間後のことだった。
「お前を嫁に出すことになった」
叔父の書斎に呼び出されて、いきなりそんなことを告げられた。
「……え?」
思わず聞き返すと、叔父は手にしていた手紙を私に向けた。王宮の紋章が入った、立派な封筒だった。
「王太子命だ。エヴァンス伯爵家から婚約者を出すようにとの依頼があった」
「どこへ……?」
「グランハート公爵家だ」
「こ、公爵……!?」
グランハート公爵家。
その名前なら、私でも知っている。王家に次ぐ力を持つ名門中の名門で、代々優れた魔力を受け継いできた一族だ。
現当主のヴィクター・グランハートは、若くして公爵位を継いだ天才だと聞いている。
けれど同時に、恐ろしい噂も耳にしていた。
「でも、あの公爵様は確か……」
「ああ。婚約破棄を10回以上している」
叔父は面倒くさそうに言った。
「冷酷な男で、婚約者が次々と逃げ出すらしい。まあ、お前のような魔力無しを送り込むには丁度いいだろう」
グランハート公爵領は、王都から遠く離れた北の果てにある。魔力が豊富な土地である一方、魔獣が頻繁に現れる危険な場所だ。
そんな恐ろしい土地の主が、婚約者を次々と逃げ出させる冷酷な人物だというのだから、二重の意味で恐ろしい話だった。
「良かったね、アリス」
いつの間にか部屋に入ってきていたベアトリスが、嬉しそうに笑った。
「私、あんな恐ろしいところに嫁ぐなんて絶対に嫌だもの。アリスで良かったわ」
彼女はくるりと回って、ドレスの裾を翻した。
「……まあもう、家に帰ってくるなんて恥さらしもできないだろうけど。ふふっ」
彼女が着ているドレスは、もともと私の物だった。淡いピンク色の、レースがたくさんついた可愛らしいドレス。
私だって、彼女みたいにお人形のように可愛らしいドレスを沢山着たかったのに。
「来週には出発だ。準備しておけ」
叔父はそれだけ言うと、私に背を向けた。書斎を出て廊下を歩きながら、私は小さく息を吐いた。
(ここにいるより、マシだったらいいな)
冷酷な公爵様だろうと、魔獣が封印された恐ろしい土地だろうと。
少なくとも、この家よりは――そう思わずにはいられなかった。




