第四話 悋気
「おかえりなさい」
月龍の姿を見るなり、蓮は満面の笑みで飛びついてくる。
ふっと鼻孔をくすぐったのはいつもの花の香り――ではなかった。月龍にもなじみの深い、亮の香油の香り。
蓮も今日、亮と会っていたのか。それも香りが移るほどに近づいて。
浮かびかけた嫉妬心に、否と思い直す。亮からの移り香は蓮ではなく、月龍についていたのかもしれない。
「今日は、ゆっくりとしたお帰りでしたのね」
「ああ、亮と少し話しこんでしまって」
「――亮さまと?」
抱きとめた月龍から身を離すとき、蓮の指先がぴくんと震える。
会っていたのが亮だとわかれば、蓮も安心するだろう――思惑が外れたことに、小さな違和感が湧く。
月龍を見上げる瞳に浮くのは、不安の色か。眉も少し、歪んでいる。
「亮さまと、なにをお話しに……?」
問いかけに、即座に応じることはできなかった。
そもそも亮を訪ねたのは、蓮との別れを撤回するためだった。だが蓮は、その話が亮にまで伝わっているのは知らない。痴話喧嘩を知られたくはないはずだ。
また、なにかあればすぐに亮を頼る月龍の弱さを、蓮に知られるのも嫌だった。
「いや、とくには――と、そうでもないか。岷山の件で、少し」
「岷山、ですか?」
「そう、降伏してきたと。――残念だ。君と一緒になるのが、遅れてしまう」
戦に出ることと武勲を立てることは、本来同じ意味ではない。けれど月龍は自らの腕に自信がある。
のみならず、蓮を娶るために必ず武勲を立てるという決意の表れでもあった。
そう伝えることが、蓮への愛情を示す行為だと。
けれど蓮は、月龍の想いに気づかなかったらしい。ただ軽く目を伏せて、ほうと嘆息した。
寂しげというより安堵の見えるため息に、月龍は軽く浮かべていた笑みを消す。
「結婚が延期になって、嬉しいか」
月龍は一日でも早く、名実ともに蓮を自分のものにしたい。彼女を趙靖の邸へと送って行くとき、得も言われぬ寂しさに襲われた。
四六時中傍に居たいと願う。夜、蓮の体温に寄り添って眠る日々を夢見てやまなかった。
蓮は、同じ気持ちではないのだろうか。何故、寂しがってくれないのだろう。
たったそれだけで、月龍は機嫌を悪くした。
「――え?」
月龍が発した低い声に、蓮がふっと目を上げる。
「おれとの結婚が、嫌になったのかと訊いている」
「そのようなことは――!」
驚きの声を上げたあと、蓮は我に返ったように俯く。
「ごめんなさい。そのようなつもりはありませんでしたの。ただ――ただ、戦がなくなったのならお傍を離れずにいられると――あなたが、危険な戦場になど行かなくてすむと思って――」
小さな声で紡がれる言葉は、充分に納得できるものだった。蓮らしい、優しい心配だと、内心で目を細める。
「慌てて言いつくろう必要はない。偽りを聞かされるのは、面白くないからな」
あえて冷たい声を作って言ったのは、実際に憤っているからではなかった。
嘘ではないと縋ってほしかった。そうしたらより、愛されている実感に浸ることができる。
けれど蓮は、重ねての弁明をしなかった。口を噤んで俯く姿に、苛立ちが浮く。
「――ほう、否定しないか。本当に結婚が嫌になったか?」
冷たく突き放すと、蓮はいつも縋ってくれる。蓮の涙が、愛情の証だった。
――少なくとも、今まではそうだった。
月龍が心にもない別れ話を口にすれば、蓮は瞬時にそれを読み取り、安心させるために泣いてくれる。
なのに何故、今日はそうしてくれないのだろう。
「おれと、別れたいか」
「いえ――そのようなことは」
「無理をする必要はない。亮でも蒼龍でも、好きな男のところへ行くといい」
幾度も口にした台詞だった。不安になる度、月龍は別れ話をする。これもいつものことだと、気負うことなく言葉を吐いた。
こう言えば蓮は、泣いてくれる。いつもとは少し違うけれど、ここまで言えばきっと、蓮も耐えられまい。
だから、蓮が泣き出したらどうやって宥めよう、としか考えていなかった。抱きしめて、優しい声を作って愛していると囁こう、と。
――けれど。
蓮は、俯いていた顔を静かに上げる。涙に暮れてはいなかった。悲しげな眼で、ただじっと月龍の顔を見つめている。
どうしたというのか。今までと違う蓮の態度に、心臓が次第に早くなってくる。
「――そう、ですか」
やがて、ため息交じりの声で蓮が呟く。
それは、承諾の返事だろうか。
思った瞬間、背中にどっと冷たい汗が噴き出した。
「嘘だ」
蓮の両肩を、慌てて掴む。
「違う、今言ったことは決して本気ではない。何処へも行くな。――行かないでくれ」
態度を取り繕う余裕も失っていた。
もし蓮が別れを了承してしまったら――訪ねて来てくれなければ、月龍は弁明のために彼女と会うことすらできない。たとえ趙靖の邸を訪れても、門前払いされるのが関の山だ。
二人の関係は、蓮の気分次第だった。改めて、思い知らされる。蓮の優しさ、愛情深さがあってようやく、月龍は横柄を気取っていられたのだと。
不安に駆られて蓮を煽った挙句が、この様か。
焦燥感のために、瞳が左右に揺れる。そのような月龍の様子を、蓮は不思議そうに見つめていた。
やがて、奇妙なほどに明るく笑って、首肯する。
「はい、私はずっと、あなたのお傍に居ます」
言って、月龍の腕からするりと離れて行く。
「では、お食事にしましょうか。すぐにご準備いたします」
肩越しに振り返ったのは、いつもと同じ優しい笑顔だった。
もしかすると、蓮に試されたのかもしれない。
鼻歌でも飛び出しそうな後姿を見つめていて、不意に気づく。自分が今まで蓮にしていたように、彼女もまた、月龍の想いを確かめたいと考えても不思議はない。
ましてつい先日、暴言を投げつけた。不安になって、当然だろう。
蓮が別れを承諾するかと思ったときの寒気を思い出し、ぶるりと身震いをする。肝が冷えるとは、ああいった心境なのだろう。
今まで蓮は、あのような気分だったのだろうか。辛い思いをさせたと、今更ながら後悔した。
もう、別れ話などできない――思う理由が蓮のためというばかりではなく、自分自身が恐怖に駆られるからであるのが、月龍らしいところでもあった。
――だから当然、思いもよらなかった。
後ろ姿では明るさを装う蓮が、瞳いっぱいに涙を溜め、悲しげな表情になっていたことは。




