第二話 安寧
「蓮との別れを引き換えに、金でも貰ったのだろう。いくらであれを売り戻したのかと訊いている」
「なっ――」
痛烈な皮肉に、絶句する。
亮の毒舌には慣れているが、これほどまで侮蔑に満ちた辛辣さは初めてだった。
怒ってしかるべきなのだろうが、突然のことに怒気よりも狼狽の方が先立つ。
「莫迦な。金で蓮を売ろうなど――」
「ならば地位でも約束されたか」
「亮!」
しれっと言い放つ亮に、とうとう怒鳴る。
「ふざけるのも大概にしろ!」
ばん、と卓に両手を叩きつける。低さを増した声、睨みつける月龍の目を、しかし亮は平然と見上げた。
「だがなぁ、他にどのような理由が考えられる?」
肩を竦める様子は、まったく悪びれたところがない。
確かにそう受け取られても仕方がないかと、以前の悪行を思えば嘆息せざるを得ない。
「金や地位のためではない。趙公に言われたのだ。蓮を想うなら、身を引いてくれと」
「――ほう」
「岷山に強敵はない。貴官の腕ならば確かに、手柄を立てられよう。だが蓮を娶った、その後は、と」
「その後?」
「易姓革命を目論む天乙の反乱はもはや、避けられない。この非常時、腕の立つ者には地位を与えて働かせることになる。蓮との結婚で身分を得れば、出世を妨げるものはなく、貴官は近く、将軍にもなろうと仰った」
「――まぁ、そうなろうな」
だからどうした。先を促す台詞に、呆れが見える。
「だが戦になれば、すでに命運尽きた夏が商に勝てる見込みはない」
夏の皇子たる亮に対する発言としては、きわめて非礼な断定だった。
だが亮は気にした風もない。そもそも「夏の滅亡」などという単語を初めて聞いたのは、亮の口からだった。自分で放言してやまぬことを他人が言ったからとて怒るほど、狭量な男ではない。
「敗軍の将たるお前に蓮はやれぬ、と?」
不快げに眉を顰めたのは、趙靖の言葉に月龍が屈してしまったからだ。
首肯する月龍に、亮は頭を抱える。
「おれは前々から言っておいたはずだぞ。夏に骨を埋める必要はない、時が来ればさっさと商でもどこでも投降すればいいと――」
「無論、おれもそう答えた。だが言われたのだ、貴官は何処へ行っても武官だろう、と」
憮然としたまま、月龍は続ける。
「このような時代、革命は成っても戦は続く。戦には妖が住むという。いくら腕に覚えがあろうともなにが起こるかわからず、命を落とすことも充分にあり得る。ならば残された蓮は?」
話しているうちに、厳しい趙靖の顔が思い出される。
決して憤っているわけではない。声を荒らげるわけでもない。無表情のまま、淡々と諭されるからこそ恐ろしかった。
「うら若き身で寡婦にさせるつもりか、みすみす蓮を不幸にするつもりかと言われれば、答えられなかった」
「お前は阿呆か」
一層、亮の声の方が怒気が強い。片膝を立てて身を乗り出す様に、いつもの優美さは見えなかった。
「寡婦の再婚は難しい、元譲殿の言う通りだ。――だがな」
亡き夫への貞節を忘れた薄情な女と、悪し様に罵られることは多々あった。一定の理解を示したあと、亮の眉間の皺が深くなる。
「蓮ほどの身分の女、本人の希望とは関係なく政略的に嫁がされる。寡婦となったからとて、生涯孤独で過ごすなど、たとえば蓮が望んだとしても難しい。――否、なによりあの蓮が、次の男などを求めると思うか?」
「思わない」
「ならば――」
「思わないからこそ、反論できなかった」
遮って口を挟んだ月龍を、亮が不思議そうに見上げた。
「たとえおれが戦場で死んだとしても、蓮はおれを想ってくれるだろう。その想いを抱えたまま他の男に嫁がされるのも、ひとりで孤独に過ごすも、いずれにせよ不幸ではないか」
「けどな、月龍――」
「それに戦となれば幾月も戻れぬこともある。おれが武功を立てれば立てるほど、名を上げれば上げるほど、蓮の身にも危険が及ぶ」
「人質か? それならばお前のことなど関係ない。あれは公主だ。王に対しての人質としてすら機能する」
だからお前が気にすることではない。言外の言葉に、頭を振った。
「その通りではあるが、おれのところに留まらなければもっと、警備の頑丈なところに――安全なところに、蓮は居られる」
趙靖は外戚だった。外戚だからとの特別待遇を望まぬ彼の要望で、内殿の端に居を構えている。
そう、端とはいえ内殿にあるのだ。
文官、武官の高官たちの居住地で、身分のない者は立ち入ることさえできない。そこに住まう蓮の身も、安全だった。
亮の元を訪ねるとしても、そこは王の宮殿であり、より重い警備が敷かれている。
それに引き換え、月龍の邸は内殿にすらない。
否、月龍とてそこに住まう資格はある。希望すれば、内殿に居を構えることは可能だった。
けれど問題は、そこではない。
それは月龍が夏に身を置いていればの話だ。
夏を見限って何処かへ投降したとする。腕を買われて武官になったとて、他国からの者をそう簡単に信用はしない。
内殿に住まうことはまずあり得ず、厳重な警備もおそらくは望めない。
これが、嫁いだ先が文官であれば話は別だ。
たとえ夏が倒されたとしても、皆殺しにされるわけではない。所謂「易姓革命」ならば、邑は残る。文官は国の運営のため、そのまま置かれることはあった。
しかも天乙は、徳の高さで知られる男だ。祖先を祀らせるために一族郎党を滅ぼし尽くすことは考えにくく、王の末裔を残すことは予想される。
さすがに、亮を残しはしない。夏に残れば、彼の命はないだろう。
嬋玉も王の手がついた。趙靖は男で、しかも武官だ。
けれど蓮は?
文官に嫁いでいれば、その男と共に氏族を祀ることになるだろう。
もし誰とも添っていなければなおのこと、その役目としては適任だった。
王の一族として、外戚の公主として、守られながら生涯を過ごすことになる。
「――だから、か」
亮が低く呻く。
「だから、蓮に嫌われた上で別れる必要があった、と……」
片手で両のこめかみを押さえ、沈痛な声と共に深いため息を洩らす。
蓮の身の安全を、出来得る限り完全に近い形で守りたいのならば、別れなければならない。
蓮の心の安寧のためには、月龍を嫌っている方がいい。
すべては蓮の、健やかなる心身を守りたいがためだった。




