第九話 悲愴
蓮の頬に落ちた涙が、月龍を立ち返らせた。はっと動きを止める。
背に回しかけていた手を止めると、ぐっと握りしめた。
けれど。
「――ふっ」
堪えきれぬ嗚咽が、小さく口をついて出た。
いけない、このままでは泣き出してしまう。
咄嗟に蓮を突き飛ばして離れると、片手で顔を覆い、天井を仰いで無理に空笑いして見せる。
「はっ――冗談ではない」
ひとしきり笑った後、吐き捨てる。
「なぜこのおれが、練習になど付き合ってやらなければならない? それほどおれに抱かれたければ、他の男にでも教わって、少しは上達してからくるのだな」
勢いで出てしまった、心にもない言葉。実際にそうなれば、嫉妬で発狂するに違いない。
覗き見た蓮の顔からは、表情が消えていた。今まで浮かんでいた悲しみの色さえないのが、衝撃の大きさを物語っている。
けれど、これでいい。これで、嫌ってくれるはずだ。蓮のためには、最低最悪の男であった方がいい。
「今――なんて?」
呆けたように、蓮が問いかけてくる。
チッ、と舌打ちを吐き捨てた。このような酷い言葉、幾度も口にさせないでくれ。
苦痛をごまかすため、口元を歪めて見せる。
「聞こえなかったか。もう一度おれと寝たければ、誰か他の男に抱かれてから来い、と言ったのだ」
自分を愛しているなら他の男に身を委ねろ。なんという矛盾した話か。
蓮をこれ以上愚弄し、拒絶する言葉は他にないだろう。
蓮は、このことを亮に話すだろうか。ふと、思う。
妹たる蓮に働いた非道を知れば、亮は怒り狂うだろう。これまでほぼ唯一と言っていいほど大切にしてきた亮との絆も、終わるかもしれない。
蓮と亮、大切な二人を同時に失うことになる。
ならば一層のこと、公主への侮辱罪で死を賜った方が楽だった。
もしそうならなくとも、自害も悪くない。極端な考えも、脳裏に浮かぶ。
「――考えさせて、ください」
長い沈黙の後、振り絞るような声で蓮が言う。
それが、限界だった。あとは両手を顔に当てて、泣き出してしまう。
しゃくりあげて泣く様が、月龍の神経に触れた。
「泣くな。うっとうしい。泣くのならば他所でやってくれ」
涙に暮れる蓮の姿など、辛くて見ていられない。
裏返しで言うより他はないが、今まで散々、わざと蓮を泣かせた月龍が言っていい言葉でもない。
冷たい放言に、蓮の肩が竦む。慌てて涙を拭う姿が、また辛い。
そもそも考えさせて、ではないはずだ。自分を愚弄する無礼者を罵倒して、平手のひとつも見舞って飛び出すのが筋ではないのか。
――そうしないのが蓮の優しさであり、愛情の深さ。
「ともかく、今日は帰ってくれ。君の泣き顔など、もううんざりだ」
そう、泣き顔などうんざりだった。見たいのはあの、花さえ霞む柔らかな笑顔なのだから。
蓮の腕を乱暴に掴み、表に向かって歩き出す。門まで引きずって歩くと、扉を開いて外へと放り出した。
「――邵様?」
護衛兵が驚くのも無理はない。月龍の蓮への傾倒ぶりを知っているのもさることながら、公主への態度としては不敬に過ぎる。
「趙侯の邸でも宮殿でも――彼女が望む方へ送ってやれ」
「は、しかし……」
「余計な詮索は無用だ。黙って従えばいい」
後も見ずにい言い捨てると、月龍は門扉を閉める。
扉一枚隔てた向こう側から、すすり泣く蓮の声と、兵士の困惑の気配が伝わってくる。
これが、将来的には蓮の幸せにつながる。思うことが、月龍を慰めた。
それでも堪えきれず、扉に背を預けたまま、両手で顔を覆った。




