第六話 要諦
「どちらを選ぶ。おれか? あの男か」
問いを発して、ようやく我に返る。そして急激な不安に襲われた。
もし蒼龍を選ぶと言われたら?
別れを示唆したのは月龍の方だ。慌てて撤回したところで、蓮の心変わりが成った後ならば、どうしようもない。
蓮が、愕然と見開いた目で月龍を見る。見つめ返す勇気がなくて、視線を横に流した。
「どうして、そのようなことを言うの?」
ぽつんと洩れたのは、涙声。
月龍が目を落とすより早く、蓮は両手で顔を覆った。肩をゆすって泣き始める姿が、酷く不思議なものに見える。
もし心変わりしたのなら悲しむ必要はなく、まだ想いを傾けてくれているのなら、月龍を選ぶと宣言するだけでいい。
「あなたが薛家の出だと聞いて、嬉しかったのは事実です」
途切れがちになりながら、蓮は語る。
息を整えようとしているのだろう。時々、深呼吸を繰り返す。
「でもそれは、あなたの出生がわからぬことが出世の妨げになっていると、亮さまに聞いていたから――あなたも、出世を望んでいると知っているから。薛候に子息と認めてもらえれば、立場は有利になるでしょう? だから――」
「だから、あの男の機嫌を取っていたと?」
薛と月龍の間を取り持つ蒼龍を、味方につけるためだったと言いたいのか。事実なら、蒼龍を殴り飛ばし、その努力を無にしたことを怒るのは無理もない。
けれど、言い訳めいて聞こえる。蓮が蒼龍に向けていた微笑みに、計算があったとは思えなかった。
誤魔化そうとしているのか――自然と、表情が険しくなる。
「――そういうわけでは、ないけど」
続いたのは、ため息混じりの否定。月龍が怒っているようだから、意図に沿うように答えておこうと思っているのだろうか。
握り締めた拳が、震える。
「やはり、あの男だから信用した。そういうことだろう?」
「それは――いけないことですか?」
目元を拭ってはいても、まだ涙は乾いていない。潤んだ瞳の悲痛さは気づいていた。
けれどそれ以上に、瞬間的な怒りが湧き起こる。
とうとう開き直ったのか。
蓮を殴るわけにはいかない。暴れ出そうになる拳を、懸命に堪える。
「好きな人の――あなたの弟君だからと信じるのは、それほど悪いことですか?」
涙声の訴えに、はっと息を飲む。はらはらと頬に滴を伝わせながら、蓮は続けた。
「蒼龍が、言ったの。双子とは元々、同じ人間だったと――同じ体、同じ魂を分かち合った存在だと。違う育ち方をしたあなたが目の前にいるようで――あなたと同じ顔で笑ってくれるのが、嬉しくて」
月龍の弟だから信頼した。
もう一人の月龍と思えばこそ、好意を抱いた――思考の中心に月龍の存在があったのか。
なんと単純なことか。我ながら呆れる。
そうして、薛がどうこう言うよりも、蓮の心変わりの方が心配だった自分の傾倒ぶりに気づいて、おかしくもあった。
いつも根底に、不安がある。
蓮と月龍の関係は、対等ではなかった。
身分の違いだけではない。想いの強さに、圧倒的な開きがある。
月龍が一方的に惚れ込んで、追いかけて、ようやく掴まえたのだ。蓮が同じように想ってくれると、無条件で自惚れることができない。
けれど、今の言葉に嘘はない。蓮の涙が証明してくれた。
「すまない、蓮」
手を伸ばして、そっと蓮の頬に触れる。ぴくりと蓮の睫毛が震えた。
不安げに向けられた目線を遮るように、ゆっくりと抱き寄せる。
「君を、泣かせるつもりはなかった」
調子のいいことを言っている。頭の中で自嘲が響いた。
蓮の涙でようやく安堵し、落ち着きを取り戻したくせに。
「突然現れた弟、知らされた出自――動揺した。どうしていいのかわからなくて、君に当たってしまった」
「――そう、でしたの」
腕の中で、ため息が洩れたのを感じる。これこそ、言い訳だった。
もっともらしい嘘に、蓮はきっと同情する。
――蒼龍にも、そうだったように。
「困惑して、当然ですよね。やはり、前もってお伝えしておくべきでした。ごめんなさい。あなたのことを考えているつもりだったけれど、あなたの心境を、全然わかってなくて……」
月龍の背に回された、小さな手。しっかりと抱きしめた蓮の髪から、ふっと花の香りがした。
甘い香りが、鼻孔に広がる。
胸に沸いたのは、色欲ではない。
蓮への遠慮から、ずっと蓮に触れられなかった。深い繋がりを持てないことが、不安を募らせる一つの要因かもしれない。
もっと奥、深いところで蓮と結ばれたい。
そっと、衣服の上から蓮の胸に手を伸ばす。びくりと身が竦んだ。
「嫌なら、やめる」
手の中にある膨らみをゆっくりと撫でながら、身を屈めて耳元に囁く。蓮の体が、硬直していた。
けれど、抵抗の気配は感じられない。
「君の気持ちを、肌を通して実感したい。――受け入れて、くれるか」
なるべく優しく聞こえるように、努力した。
怒鳴ってこそいないが、つい先程まで冷たい物言いをしていたのも事実だ。怖がらせたくはないし、強要もしたくない。
言葉通り、蓮の気持ちを感じたいのであって、体を欲しているわけではないのだから。
わずかに身を離して、蓮を見つめる。
蓮も、真っ直ぐに月龍を見つめ返していた。
「――大丈夫」
強張っていた蓮の頬が、微かにほころんだ。
いつものような満面の笑みではないけれど、恐怖に引きつったものでもない。
「あなたが望むなら――私は、大丈夫です」
――大丈夫。
もう一度小さくくり返して、蓮の方から唇を寄せてきた。
感激が、月龍の胸を震わせる。軽い体を抱き上げたときに強くなった花の香りが、さらに幸せを実感させてくれた。




