第四話 不安
思えば、昨夜は初めから月龍の様子がおかしかった。
蓮の前ではいつも「私」と呼称する。だが昨日は「おれ」と言っていたし、言葉遣いもぞんざいだった。
体調不良のせいで機嫌が悪いのだろう。思うから、さして気にもしなかった。
むしろ、常に遠慮気味に接してくる態度に寂しさを覚えていたから、嬉しいとすら感じられた。
亮と一緒にいるときの月龍みたいで――蓮のことも、亮と同じくらい親しんでくれているように思えて。
それがまさか、あのようなことになるとは。
蓮は幼いと、亮によく言われる。そうだろう、とは自分でも思う。だから月龍に言われるまで、夜を共にすることの意味など考えもしなかった。
言われて見ればその通りである。蓮の幼さ故に今まで躊躇していたのだとしたら、申し訳なかったと思う。
自然の成り行きならば受け入れよう、そう覚悟はしたのだけれど。
――怖かった。
押さえつけられたときの力の強さ、蓮を見る月龍の目付き。耳元に吐きかけられる荒い息と、そして。
想像を絶する、痛み。
激痛などという言葉だけで、表現できるものではない。抱きしめられて、月龍が体を揺する度に身を引き裂くような痛みに襲われる。
耐え切れなくて、蓮は泣いた。許して、助けてと幾度懇願したか知れない。
けれど、月龍は解放してくれなかった。繰り返される激痛の波に、意識は次第に遠のいていき――
本当に、気を失ってしまったのだろう。蓮が意識を取り戻したとき、もう辺りは明るくなっていた。
体がだるい。節々も痛んだ。なにより、下腹部に残る鈍痛が、昨夜のことが夢ではないことを証明している。
臥牀の上に、月龍の姿はなかった。
無理もない。もう昼を過ぎている。蓮が目覚めるまで待っていては、仕事に遅れると判断したのだろう。
蓮を無理に起こさなかったのは、優しさなのだと思う。だから、寂しいなどと感じるのは筋違いだ。
――わかっているのに、心細く思ってしまうのはやはり、わがままなのだろうか。
ため息を飲み込んで移した視線の先に、きちんと畳んで置かれた蓮の衣服があった。意外に几帳面なところのある月龍らしい。
蓮はそれを羽織り、身なりを整えてから表に出る。
誰もいないと思っていたから、おはようございますと声をかけられて、驚いた。
見ると数人の男性がいて、馬車が準備されている。邸に送るようにと月龍が手配してくれたようだった。
少し、安堵した。
仕方がないとわかっていても、一人にされたことに対しての不安は拭えなかったのだ。
けれどこうやって、蓮を気遣ってくれる。意味もなく放置されたのではないと、思うことができる。
だから蓮は、行き先を変えた。
月龍が指定したという蓮の邸ではなく、宮殿へ――今、月龍がいるはずの所へ。
いつものように、亮の部屋で待とうかとも思った。けれどなんとなく、顔を合わせ辛くてやめる。
それに、昨日、一昨日と月龍は亮の元へ来なかった。今日も必ず来るとは限らない。
確実に会いたかったから、月龍がいる練兵場へと向かった。
兵士の訓練を見るのは、本来は衛尉の仕事ではない。だが月龍は技量を買われて、武術指南の役回りをしている。
遠くからでも、月龍の姿を見つけるのは容易だった。
立派な体格の兵士達の中にあってさえ、月龍は長身である。また、一挙手一投足、すべてが美しい。
武芸などまるで知らぬ蓮が見ても、月龍の実力が抜きん出ていることくらいはわかった。
今日は少し、動きに精彩を欠いている気もするけれど――それでもやはり、綺麗だった。
見つめる蓮の視線に気づいたのか、ふと月龍が振り返る。
目が、合った。
確かにそう思ったのに、月龍は表情を緩めることなく、すぐに目をそらした。
気づかなかったはずがない。蓮の顔を素通りしたのならば、その可能性もあるだろう。
けれど、月龍の目は一度、蓮の上に止まった。それから、慌てたように元の方向へと戻したのだ。
それも、頬には強い緊張の影を貼りつけて。
まるで、蓮の顔など見たくないとでも言いたげな所作だった。
きっと、気のせいだ。月龍が蓮を避ける理由はない。――ないはずだ。
けれど、一人で目覚めたときから感じていた、漠然とした不安に襲われる。
昨夜の月龍は確かに不機嫌だった。その理由が、蓮にあるのか。
だから、契りとも呼べぬ乱暴な行為に走り、素直に受け入れることができなかった蓮に対して、さらに憤っているのかもしれない。
心配を裏付けるように、月龍は鍛錬が終わるまで、一度も蓮に目を向けなかった。
否、終わるまでではない。終わってからも、だ。蓮がここにいると知っているはずなのに、一瞥も向けない。
兵士達への挨拶などもほぼなく、蓮に背を向ける形で真っ直ぐに歩き出した。
向かう方角が亮の部屋であれば、安心したかもしれない。だが月龍の足が向かったのは、厩の方向だった。
帰宅するつもりなのだ。
「待って」
蓮は遠くから声をかける。
月龍は振り向かない。足も止まらない。むしろ速度は上がったように見える。
蓮も、懸命に追いかけた。けれど足の長さも、速さも違う。
蓮が小走りに追っても、月龍が早めた歩きにすら追いつけない。
「月龍!」
今度は名を呼んだ。ただ言葉をかけるより、気づいてくれる可能性は高い。
それでも、月龍は止まらなかった。
だからこそ、蓮も止まれない。
亮のように、護身術くらいは身につけておけばよかった。そうしたらまだ少しは体を動かすことに慣れていただろうし、もっと速く走れて、月龍にも追いつけたかもしれないのに。
悔やんでも仕方がない。今はただ、懸命に走るだけだ。
「あっ」
走ろうと、力を入れて床を蹴ったせいだろうか。不意に深奥部がずきりと痛む。
――月龍が残した、痛みの痕が。
踏み出した足から力が抜ける。均衡を失った体は、がくんと前のめりに倒れた。
速度がなかったのと体重の軽さのせいか、転んでも大きな音はしなかった。
だというのに、月龍の足が一瞬止まる。
そう、ほんの僅かな間だったけれど、月龍は確実に立ち止まった。
蓮が追っていること、倒れたことを承知したはずだ。
戻ってくれると思った。甘えているのかもしれないけれど、きっと助け起こしてくれると期待した。
まさかそのまま歩みを進めるとは――蓮から遠ざかって行くとは、思ってもみなかった。
「大丈夫ですか」
月龍の背中が、段々と小さくなっていく。
もう、後を追うこともできなかった。床に座り込んだまま、愕然と月龍の後ろ姿を見送る。
すっと手が差し伸べられたのはそのときだった。蓮の目は自然と、手の主へと向く。
見覚えのある顔だった。どなたかしらとしばし考え、ようやく思い出す。
「あなたは――」
「紫玉と申します、公主」
いつだったか、蓮にぶつかってきて憎しみを露にしていた、あの女官。
蓮は彼女の手を借りて立ち上がる。
「ありがとうございます、紫玉さま」
足の痛みと、月龍に避けられたことによる混乱が、蓮の笑みをぎこちないものにする。
紫玉が刻んだ微笑は、冷たいものだった。
「私が申し上げた通りでしょう? 本当に、酷い男」
紫玉が以前言った事柄――月龍に関する、悪い噂。
女癖の悪さと非道ぶり、そして亮との爛れた関係。
亮とのことに関しては、信じる価値など見出せなかった。思わず、まぁ本当に、と笑い出してしまったくらいだ。
亮と月龍は、確かに仲が良い。誤解されるのも肯けた。
女癖については、むしろ否定できる材料を見つけられなかった。紫玉だけでなく、他者からも聞かされた話である。
月龍ほど容貌と武術に秀でた男性を、女性が放っておくとも思えない。誰とも経験がないと言われた方が嘘だ。
だがそれらは、蓮と知り合う前のこと。以前の女性関係について文句を言ったところで、過去が変わるわけではない。
大事なのは、現在だと思う。
月龍はぶっきらぼうではあるけれど、蓮にはいつも優しかった。だから気にせずにいられたのだ。
――自分に対しては違う、大切にしてくれている。
亮の仲介なのだからと、どこかで特別視を期待し、高を括っていた可能性を否定できなかった。
けれど、違ったのではないか。ただの自惚れに過ぎなかったのかもしれない。
「先程の態度を見れば一目瞭然。あなたも私と同じ、結局は弄ばれたに過ぎないということです。あとはもう、捨てられるだけですね」
お可哀相に。
くすくすと笑い声が続く。
月龍と蓮の間になにがあったのかなど、紫玉にわかるはずがない。偶然通りがかっただけの紫玉が見てもはっきりとわかるほど、月龍があからさまに蓮を避けた。
それが、事実だ。
蓮が感じたのは、単なる不安ではなかった。きりきりと胸を締め付けるのは、恐怖に近い。
鼓動が鳴る度に走る痛みに、眩暈さえ覚えていた。




