第十話 陸宏
宮中での暴力など、正気の沙汰ではない。知っているはずなのに、頭の片隅にも浮かばなかった。
目に映るのは、蓮を傷つけた憎い敵の姿のみ。背景も、鬼の形相で佇む自分を訝しげに見ながら通り過ぎていく官達も見えていなかった。
腕を伸ばす月龍の意図がわからないのか、皮肉な笑みを刻んでいた紫玉の顔に、ようやく怪訝が滲む。
構わず肌に触れた月龍は、紫玉の喉を掴み上げた。
紫玉の足が数寸、床から離れる。苦しいのだろう。両手で月龍の手をはがそうと掴み、両足をばたつかせる。
月龍の耳に、ぐちゅっと濡れた音が聞こえた。手には、なにかが砕けた感触が伝わってくる。
それでもなお、締め上げる力を緩めない。このままであれば女は死ぬだろうし、実際にそれを望んでいた。
けれど二人の状況に、周囲が気づかぬはずもない。対応が遅れたのはおそらく、月龍の行動がなんの脈略もなかったからだろう。宮中で女の首を絞め始めるなど、予測しろという方が無理である。
あっけに取られていた人々が、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「邵殿、なにをなさっているのですか! 落ち着いてくださいっ」
尋常ならざる月龍の様子を恐れているのだろう。腕力の凄まじさも知れ渡っている。見ず知らずの女を助けるために自らを危険にさらす気はないのか、集まってはいるものの、誰も声をかけてこようとはしなかった。
そのような中、唯一声を上げて月龍の肩に触れた者がいる。位で言えば二つ下の若い文官だ。
名は陸宏だったか。亮が以前、あの男は優秀だ、出世するぞと言っていた気がする。
自分の肩ほどまでしかない陸宏をちらりと見下ろし、無造作に左手を払う。
さほど力を加える必要はない。女一人の体重など、月龍からすれば微々たるものだ。軽い動作で払っただけで、紫玉の体は投げ飛ばされる。
後ろの壁にぶつかり、崩れ落ちるように倒れた。
まるであの日のマオミィだな。
ふと、自分が殺した仔猫を思い出す。
違いは、紫玉には息があることだった。激しく咳き込んでいる。その口から洩れる少量の血液は、マオミィに似ていたけれど。
「この女は蓮公主を侮辱した。二度と暴言が吐けぬよう、喉笛を潰しただけだ」
誰かに訊ねられるよりも先に声を上げる。柄にもなく朗々と歌うように言ったのは無論、周囲に集まった連中に聞かせるためだ。
外戚筋の公主である蓮への侮辱は、たしかに罪ではあった。だがそれは蓮が訴えて初めて成り立つものである。
蓮はこの場にはおらず、まして紫玉は公平な裁きも受けていない。月龍の言葉が真実だったとしても、これは間違いなく私刑に類する。罪に問われるべきは、月龍だった。
「しかし――」
「なに、どうせ公主の美声とは比べ物にならぬものだ。蛙の鳴き声にも劣る。失ったところで悲しむ男もおるまい」
論外な台詞を吐き捨てて、月龍はもう、倒れて蹲る紫玉に目もくれずに立ち去る。愕然と見上げてくる陸宏の顔も気にならない。
超然とした様に狂気を見たのか、誰も月龍を咎めず、呼び止めることもしなかった。むしろ進む先に道を作るように、いつの間にかできていた人垣も左右に分かれる。
その中を悠然と進む姿は、人々に不気味な印象を植えつけた。




