第十二話 助けて
家人たちが、退室する。
残されたのは蓮と楊闢、二人だけだった。
「離して下さい、お願い……!」
楊闢は武官だった。月龍には及ばないけれど、腕力はある。蓮が太刀打ちできるはずもなく、奥の間へ引きずられながら涙声で嘆願した。
「ほう、ご覚悟の上で参られたのではなかったのか」
「それは――そうですが、でも――」
「やはり嫌だから帰る、とでも仰るか」
嫌だった。すぐにでも帰りたい。一層のこと、すべてを投げ出して逃げてしまおうか。
自分で促しておいて、本当は帰す気などないのだろう。有無を言わさず臥牀へ押し倒すと、耳元に囁きかけてくる。
「私はそれでも構いませんよ。ただ、邵が納得するかはわかりませんが」
男くさい息と共に吹きこまれた言葉に、息を飲む。
決して忘れたわけではない。何故ここへ来なければならなかったのか、忘れられるはずもなかった。
けれど改めてそれを口にする、楊闢の意図は?
楊闢はたしかに、人事に関しての権力を持つ。約束通り、月龍を昇進させることはできるだろう。
裏を返せば、降格もできるということに他ならない。
仮に、僻地への左遷になどなったら?
蓮は無論、迷わずついて行く。
しかし月龍は? 原因となった蓮を、果たして伴ってくれるだろうか。
考えるまでもない、答えは「否」だ。
昇進のために身分を欲して近づいたのに、逆の効果をもたらしてしまったら間違いなく捨てられる。
月龍の傍に居たい。そのためには、役に立つしかなかった。
きゅっと、唇をかみしめる。
「本当に、お約束して下さいますか」
目を閉じて背けていた顔を正面に向け、楊闢を睨みつける。蓮にしては珍しく、意識して作った敵意をこめた眼差しだった。
もっとも楊闢は、怯む様子すら見せない。ふん、と鼻を鳴らした。
「当然です。二言はありませんよ」
「では――念書を頂きたく存じます。いつ、どれだけ昇進をさせて下さるのか――」
「用心深いですな」
内心では小賢しいとでも思っているのだろう。感心するような台詞の裏に、嘲りが含まれていた。
楊闢の指先で、顎をつままれる。上を向かされ、酒の匂いのするねとつくような舌で、唇を二度、三度と舐められた。
悪寒が、一気に背筋を駆け下りる。全身は総毛立ち、まるで蛇に素肌を這い回られるような嫌悪感に体が震えた。
蓮の恐怖を知りながら細められる楊闢の目が、さらに怖気を誘う。
「念書ですね。かしこまりました。終わり次第、用意いたしましょう」
「あとでは信用できません。今、用意していただかないと――」
「それこそ信用できませんな。念書だけ持ち逃げされては、たまらない。それに時期はともかく、昇進のほどは、現段階では約束できかねますから」
「――どういう意味ですか」
「どれだけ昇進できるかは、あなたの働き次第というわけです」
にやりと歪んだ口元が告げた内容に、絶句する。
同衾を要求するだけでは飽き足らず、蓮の身体を値踏みし、品評しようというのか。
なんという、卑劣漢。
嘔吐感と激しい動悸に、眩暈がする。
今すぐ逃げ出したいけれど、そうしても戻る場所はない。
「精々、楽しませてくださいよ」
耳元に口づけてくる、卑しい男の声が聞こえる。
視界が揺れた。痛みを伴う目頭の熱が、意識を朦朧とさせる。
これは、現実なのだろうか。出入り口を虚ろな目で眺めながら、考える。
月龍が、蓮をここに送りこんだのだ。私利私欲のために、使い古した道具のように蓮の身体を楊闢に与えた。
この行為の、一体何処に愛があるというのか。
けれど同時に思う。
月龍はきっと、自分を愛してくれている。何処かに想いがあるからこそ、執着を見せるのだと。
胸を占める、矛盾した二つの考え。
だが、どちらも蓮には真実だった。
そして今、期待へと重心が傾いている。きっと今頃、月龍は酷く後悔しているはずだ。きっと、助けに来てくれる。
衣服が脱がされるのを感じていた。男のいやらしい視線が、素肌を舐めていくのも。
大丈夫――大丈夫なはずだ。
月龍はもう、すぐそこまで来ている。あの扉から入って来て、楊闢を蓮の身体から引きはがしてくれる。
早く――お願い、早く来て。
完全に歪んだ視界の中、開かぬままの扉が揺れている。
とうとう、瞳いっぱいに溜まっていた涙がこめかみを伝って流れていくのを感じた。
――助けて、月龍。
心の中で続いていた蓮の懇願が、そのとき、悲鳴へと変わった。




