池のほとりで
今年もあの日がきた。友人Mの命日だ。
〇×県△□村。この村の外れに「血ノ池」と呼ばれる池がある。よその土地には地獄谷だの亡者道だの物騒な地名があるので名前自体は問題ではない。
問題なのはここで20数年前にある奇怪な出来事が起こり、世間的には未解決という点だ。相当な年月が過ぎた今でも時折取材が来るが、真相を話しても鼻で笑って帰っていく。おかげで元々閉鎖的な村は一層外に対して門戸を閉ざし、排外的になり来年市町村統合の煽りを受けて村が行政上消滅する事態になっても誰一人として移住しようとはしない。
正直な所Mとはさして親しい間柄ではなかった。だがあの男の身に起こった事が今後引き起こされる事が無いように警告の意味であの夜の出来事を記しておく必要があるように思うのだ。
私は民俗学という金にならない学問を志した時から両親含む親類縁者とは疎遠になっていた。その事はさして問題にはならなかったが、この学問、意外に金が掛かる。詳しくは読者の興味の埒外と思うので割愛する。とにかくどこで私の窮状の噂を聞きつけたのか、大学の昼休みに中庭で1人本を読んでいる私にMが突然声を掛けてきた。
「僕の田舎にはちょっと変わった風習があってね」
外見の朴訥さや素直さから馴れ馴れしさを感じさせない田舎者独特の気安さで話しかけてきたのだ。
私がフィールドワークの金がない事を伝えると彼はそんな事は分かっていると言って続けた。
「実は大叔父が亡くなってね。その葬儀やら財産整理をしなくちゃならないんだがとにかく何もない村なんだ。そこで村興しの一環として村の風習やらなんやらを調べて発表して欲しいんだ。だから宿泊費も飯代もタダでいい。どうだろう?」
余人なら、もしくは私が貧乏暮らしをしていなかったらこの話に乗らなかっただろう。だが当時人生が八方塞がりだった私は快諾してしまった。
5日後の大学最後の夏休み初日。私はMと共に△□村を訪れていた。現代日本にこんな場所がまだあるのかと疑うくらいにそれこそ戦前から時間の流れの止まった村で台風でもあればすぐに消し飛びそうなほど狭く、寂れていた。
問題のMの大叔父は閉鎖的な村でも更に変わり者だったらしく集落から離れた山の麓にある「血ノ池」の傍に人1人が住むには大きすぎる家を建てて暮らしていた。それが先週亡くなったというので唯一の肉親であるMが来たという訳だった。
「正直、この村には殆ど来た事が無い。祖父母は早くにこの村を出て、両親もこの寂れ具合を嫌って1度来たきり寄り付こうとしなかったからね。だが大叔父は違った。この村の水神様を狂信していたんだ。だから信仰の源たるこの池の傍に家なんか建てて住んでいたんだな」
「水神様?」
「ま、曰くありがちな神様でね。それは葬式に出れば判るよ」
Mの声は恐ろしく明るかった。
その意味はすぐ分かった。葬儀の内容はどう好意的に描写しようと昭和の特撮作品に出てくる悪の秘密結社の陳腐な邪悪な儀式そのものといってよかった。特筆すべきはこの村では土葬が基本であの血ノ池のほとり、雑木林に覆われた墓地に埋葬するのだった。この場所は池を挟んで丁度Mの大叔父の家の反対側にあった。
墓地の風景は諸兄の想像通り不気味な物だがこの地のそれは輪をかけておかしな点があった。雑草は一切無い代わりに樹木(名前は知らない)がやたらめったら伸びており、一つの墓石に大体2,3の木が取り囲むように茂っていた。
「ここの管理人は誰だ?いつ見てもこんなに木が伸び放題じゃないか!?」
Mは葬儀を取り仕切っている長老に食ってかかった。
「そうなるんです、はい。よそ様には分からねえだろうが、これが自然の形なンです」
これが・・・と絶句する私達都会人を放っておいて葬儀は進んでいった。
棺が土中に埋められる時、風もないのに木々が一斉に歓喜するようなざわめきを発した様に聞こえて2人して身震いしたものだった。その音は棺桶が完全に埋められるまで続いたのだった。
『水神様に』
葬儀の最後に村人達はそう唱えると何事も無かったかのように三々五々帰路につく。
私達はと言えばMの大叔父の残した奇妙な家に泊まる事になった。
奇妙さでいえばこの家も墓地と負けず劣らずの「物件」だった。この家は2階建てで東西に大きく割かれていて西側は土間と囲炉裏しかない吹き抜けになっている。東側が母屋でこの1階に私は泊まる事にした。Mは2階である。
1人で住むには大きすぎるその家にはお手伝いさん等は1人もおらず、また電気も水道も通っていない。電気は納屋にある大型の発電機があるが水は約100m程離れたあの血ノ池からわざわざ汲んできていたらしい。大きな手桶がある事でその事が冗談ではなかった事が実証された。
「そういえば、村の人もこの池から畑に水路を引っ張ってこようとは考えないらしいな。せっかく涸れた事の一度もないなんて伝説があるのに」
「そうなのか?だが血ノ池なんて名前なんて所から水を引っ張ってこようとは普通は恐ろしくてできないと思うがな」
Mの伝説に興味を引かれて私は軽口を返した。私達は喉が渇いたので早速手桶を持って水を汲みに行った。
池はその名とは反対に青々とした清水の集まりだった。水温も丁度良い。
「この池は水神様、つまり天に上る竜の血が落ちて出来たと言われている。あまりに神聖なものだから誰も使う事まかりならん、というのさ。バカバカしい」
「だが誰かが使えば我も我もと殺到してたちまち池は涸れてしまう。そういう戒めなのではないかな?」
だとしても、とMは言った。
「スピードと効率の現代に生きる僕達としちゃ、非効率この上ない伝説だね。今日1日だけ、水路を作ってその恩恵に与ろうや」
やめておけ、という私の意見に耳を貸さず、Mは納屋からクワを持って来て即席の水路を池と家の間に造り始めた。Mが十分な斜面を作ったはずなのに水はまるでそこに行くのを嫌がるように池から出ようとしなかった。そこでMが池の端に溜まった水を水路に強引にクワでかき出すと嘘の様に大きな水流となって流れ出すのだった。
「ま、明日には全部埋めちまうんだ。たった8時間だけよろしく頼むぜ」
池と水路に手を振るとMは上機嫌で家に入っていった。
その夜私は夕食をドライフルーツと持参した水だけで済ませた。他にも主食となる米やらシチューの素等はあったが、どれも水を使う物でとりわけ曰くつきのこの池の水を使う気にも、調理されたMの雑炊やみそ汁も食べたり飲んだりする気にはなれなかった。
というのも例の工事以来水路や汲み上げた水からは薄い、しかしはっきりと異様な霊気のような物が漂い始めた。加えて手桶や鍋に入れた静水が波立ったり物を落としていないのに波紋が広がったりした為だ。
更には雑炊やみそ汁の立てる湯気が竜か蛇のような形を取って恐ろしい大口を開けた時は現代科学の信奉からではなく単に迷信を信じていないだけのごく普通の日本人たるMと私とて流石に大声を上げた。
「水路を潰そう」
私の言い分にしかしMは断固として反対した。
「駄目だ。家を潰してこの土地を貸してペンションにするつもりなんだ。こんな事をやってみろ、誰も借り手はいなくなってしまうぞ」
「君もあの影を見ただろ。あれは警告だよ。今ならまだ引き返せる」
「それは学者としてかい?友人としてかい?」
「どっちもだ」
からかい気味のMに私は強く言った。この時は怖いと言いだせない強がりだと思ったのであえて強気に出たのだ。
「なら、友人を信じて欲しいね。迷信も友情も眼に見えない不確かな物だけど、どっちを取ると言われて迷信を取る程、君も落ちぶれちゃあいまい?」
こう言われてしまえば私はその場は引き下がるしかなかった。
真夜中誰もが寝静まった頃、私は起き出して水路を壊しにかかった。だがいくらクワを振るっても土は岩の様に硬くビクともしなかった。
潰す事も、水路の変更もできないまま虚しい努力をどの位しただろうか。不意に水路の水かさが増した。
まるで嵐の時の河川の如き轟音を立てて水は濁流となってMの即席の手洗い場を沈めて家の中へ流れ込む。水はあっという間に土間を水浸しにしたと思うと西の吹き抜けを満たしていった。あまりの出来事に一目散に外へ出た私は顔を拭って手についた水滴を見て叫び声を上げた。
血だった。
今や水は大量の血となって水路を逆流して池に注いでいたのだ。
私は納屋に突撃し、はしごを持って壁に立てかけ2階へ心に木霊す凄まじい恐怖と一片の友情から段を踏み外しながら懸命にはしごを登り、Mへ脱出を呼びかけた。
木製の窓から見えた光景は今でも、いや一生忘れられない。
木の根か蛇のように細く逆巻いた水の飛沫がいくつもMに絡みついていて、それらが心臓の鼓動の様に脈打っていたのだ。
あまりの光景に私は叫び声を(これは後で村の人から聞いたことで、自分では覚えていない)上げてはしごから真っ逆さまに転落して気を失ってしまった。
ここから先、語る事は余り多くない。朝になって最後の一滴まで体液を搾り取られてミイラとなったMの遺体を家の傍に埋葬した私に村人達は声を掛けてくれ、墓地に葬ってくれることになった。
「それがこの村の習わしですから」
長老は呟いた。
「なぜこの村は土葬なのです?」
「ご友人の亡骸の通りです。その為に焼かずにそのまま埋めるのですよ」
その言葉に総毛立った私は罰当たりを承知で墓を一つ掘り返してくれるよう頼みこんだ。罰は自分が受けるからと。
そして掘り返されたMの大叔父の遺体は果たしてM同様干からびていた。
全身に墓を囲む木々の根が絡まり、栄養を吸い取ったかのようだった。雑木林と池は繋がっているのだ。遺体の血が木の根を通して池に集まりその血が池を涸れさせない原動力となっていたのだ。
以来毎年私はこの村にMの弔いに来る。だが今年が最期になるだろう。今池の水が逆巻いて私のいるあの惨劇の舞台へゆっくりと・・・・・