「正しい」ことだけが、正しいというわけではない。
正しさという暴力。
その「正しさ」は、いったい何を救うのか?
そもそも「救う」ことを前提としているのか?
何のために「正しさ」を行使しているのかが、見えてこない人々がいる。それが相手に対し、単なる威圧として使われているのか、しっかりと相手を見つめての警告としてなのかが、まったく見えてこない。
正しさだけに執着する人は、多くを見失う。
いや、故意に見失っているのか?
正しささえあれば、何もかもが許されるとでも勘違いし、「暴力としての正しさ」を振るっているのだろうか?
「大義名分」は、加虐性の強い現代人たちにとって、あたかも「贖宥状」のように使われている。
善とは何か?―― 気持ちの良いこと。
悪とは何か?―― 気持ちの悪いこと。
「善」と「悪」の戦い。
ひとは自らの「快」の保護のために、他方を「悪」と断じ、「不快」を表明する。そこに冷徹な「論理性」が伴うことは非常に稀で、多数決の理論、勝ち負けによって「色分け」が成される。
宗教間における戦争。
お互いが「善」を主張し、相手側を「悪」と断じる。
まともな頭があれば、「完全な善」も「完全な悪」もこの世には存在せず、善と善、あるいは悪と悪、「感情と感情」による紛争である場合が、大半であるのにも関わらずだ。
そもそも、筆者は「善悪」という言葉を嫌う。
そんなもの、極言すれば、「快か不快か」に集約される話であり、それ以上は単なる「虚飾」に過ぎない。「泥棒にも五分の利」。これがなければ、永遠に争いごとは終結を見ない。
「正しさ」を主張する者たちが多数派である場合、多くの者たちの顔が、なぜか「歪んで見える」ことが多い。正しさに酩酊し、正しくない者を集団でなじる。事案の「当事者」でもない者たち(外野)の正しさほど、筆者は不快感を覚える。
たとえば、有名人のゴシップなどがあった際、不快を純粋に表明するのではなく、正義を凶器とし、失敗者をメッタ刺しにし、喜ぶ連中がいる。筆者的には、彼らほどの不愉快な「悪」もないわけだが、彼らは「善」を主張し、放火を楽しんでいる。悪趣味極まりないとは、このことだが、彼らは自らを映す鏡を持たない。―― 話が逸れた。
ごく近しい人間関係の話。
先の文とも繋がるが、正しさを武器に「オーバーキル」を行う人々がいる。本当に「相手のことを考え」、正しさを諭しているのか、それとも「快楽」のためだけに、暴力的な正しさを見せつけているのか?
「関係」の話である。
相手のことを思っての正しさであれば、それはそこまで間違ってはいない。しかし、相手を押さえつけることだけが目的なら、それは無意味で無価値な「暴力」にしかならない。それならば、関わらない方がマシだ。お互いにとっても。バカは一度蹴飛ばしてやれば、それで十分。それでも分からないのなら「無視」するのが正解である。
―― あ、「正」解とか、正しさのこと言ってるな俺も(苦笑)。
「正しい」という言葉自体が、一種の凶器であるとも考える筆者の寝言。
正しさよりも、何を「恥」と考えるかの方が重要だ。
君らのその正しさには、一片の恥ずかしさもないのか?