第57話 地獄の時間
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「んはーーー、つっかれたぁ!」
俺の机の前に立ち、心に奥底に溜まった疲労やらフラストレーションやらを言葉に変えて吐き出した杠葉は、ぐいと上体を伸ばした。
本人にそのつもりはないのだろうが、結果的にその豊かな胸部が殊更に強調され、破裂寸前の風船のように内側からワイシャツを押し上げる。これもう凶器通り越して脅迫だろ。思わず目線を吸い寄せられた男どもを片っ端から訴えていくんだ。阿漕な奴め。
一週間に及ぶ期末考査が終了し、帰り支度を整えている最中である。
教室全体が、苦難が終了した開放感と、夏休みが始まるという多幸感に包まれた――そんな昼下がりを迎えていた。
とはいえ、試験終了直後ということもあってか、各生徒の表情にはどちらかと言えば疲労困憊の方が色濃く滲んでいる。勝利宣言する者もいれば、敗戦濃厚の表情を浮かべる者もいる。ここはさながら社会の縮図、実に面白い。
そんな中において、気持ちよさそうに俺の眼前でストレッチする杠葉は、言わずもがな前者の空気感を醸し出している。
「なんだよ、随分と機嫌よさそうだな。手応えありって感じか?」
「んふふー、もうねぇ手応えが有り余って仕方ないよ。あーあ、次のテストにこの手応えを持越しできたらいいのに」
「気持ちはわからないでもないが」
「色々あった割に勉強には集中できてて、自分のポテンシャルに驚いてるというか。ちとせちゃん最強っていうか」
「そーかい。そりゃよかったな」
「ていうか、いいの? そんなに余裕ぶっちゃって。今回ばかりはわたし、天ヶ瀬くんに勝っちゃってるかもしれないよ」
ふっ、まだまだ考えが甘いな杠葉。
「悪いが杠葉、俺は手応えがどうだとか、誰かに勝った負けただとか、そうした次元はとうに超越している」
「ほんと、勉強に関するときだけイキってくるよね天ヶ瀬くんって」
返し強くない?
「聞くが杠葉、お前は朝起きることに自信がある、なんて言い方をするか?」
「ん、する人はいるんじゃない?」
「な? 普通はしないだろ?」
「当たり前のようにスルーしてくるね」
「それらは所与のものとして、当たり前のこととして俺たちの生活に定着しているものなんだ。つまり――そういうことだよ」
「もぉ、要するに自信があるってことでしょ。めんどくさー」
杠葉は渋面を見せると、
「あのね、わたしだから笑って受け流してあげてるけどさ」
「言うほど笑って受け流してるか?」
「そういうの、他の人の前ではあんまりやらない方がいいと思う。その調子だと来世以降も友だち増えないよ」
「おい今世は確定か……?」
そこまでの咎かね。
来世の俺はもうちょい上手くやってくれると信じたい。
「羨ましいよ。僕だったらどれだけ手応えがあってもそこまでは言い切れないなぁ。どこかしらで思わぬミスをしてるんじゃないかって、なーんか自分を信じ切れないんだよね」
俺と杠葉の応酬などなかったかのように、イケメン優男――坂井が柔和に微笑む。
「違うよ坂井くん。天ヶ瀬くんはね、友だちがいなくて趣味もないから勉強以外にやることがなかっただけなんだよ」
「いやまぁ否定のしようがない事実ではあるんだけれど、他人にそう言われるとそれはそれで腹立たしいな」
「理由はどうあれ凄いと思うなぁ」
杠葉と坂井、この旧一条グループの二人はテスト期間が始まったあたりから俺の机の周りに集まるようになっていた。杠葉はともかく、坂井が一条や川田ではなく杠葉と同じグループを選んだのは少し意外だ。一派の中で杠葉だけが離れる形になるのを見過ごせなかったのだろうか。
しかしまぁ、離れたなら離れたなりに2人して別のクラスメートのところに向かえばいいものを。人当たりがいいこいつらなら友だちには事欠かないだろうし。
「ところでっ!」
にこにこと屈託ない笑みを浮かべる杠葉は、どこか浮かれ気分で俺の机に手を突いた。
「確認なんだけれど、天ヶ瀬くんって夏休みはどこにも行かないんだよね?」
「せめてどこかに行く予定があるかって訊き方をしろ」
あと確認とか言ってんじゃねぇ。
別に答えは変わらないけども。
気分の問題だ。
「えっと、じゃあ、リビングとお手洗い以外にどこかに行く予定はあるかな?」
「バカにする以外の意図を感じねぇぞ!」
「まぁ、なんでもいいんだけどさ」
俺の抗議をさらりと受け流して杠葉は続ける。
「あのね、わたし、この夏にやりたいこといっぱいあるんだ」
「ふぅん」
「ほら、来年は受験もあってあんまり遊べないでしょ? この夏は高校生活最後の夏になるだろうから、遊べるだけ遊びたいなぁーって。お祭りに参加して花火を観たり、海で楽しく遊んだり、カラオケで一日中歌ったり」
「あぁそう」
俺は適当に相槌を返す。
そのどれもが、本来であれば仲良しグループで楽しむはずのイベントだったのだろう。
そこにあったかもしれない未来を想像すると――ほんの少し胸が痛む。
けれど、杠葉の表情に憂いは見えない。
既に吹っ切れているのか、無理をしているのか。
いずれにせよ、勝手に杠葉の心情を推し量って俺が胸を痛めるというのも烏滸がましい話だ。
「ま、遊ぶのもいいけどな、受験勉強は今この時点から始まっているからな。ほどほどにしておけよ」
「ちょいとちょいと、なんで他人事なのさ。天ヶ瀬くんも当然一緒に行くんだよ?」
「え、そうなのですか」
「そうだよ。だってわたし、友だち少ないもん」
「少ないの定義が俺とはだいぶ違うな」
そりゃ、つい数日前に軽く数人分は減ったかもしれないが、俺からしてみれば随分と高度な自虐だった。
「だからさっ、友だち少ない者どうしで――仲良くしよ?」
「おぉ……」
再び俺の机にズイと身を乗り出してくる杠葉。
乗り出してきた分、仰け反る俺。
……いや、何がとは言わんが圧が凄い。
困ったときは、とりあえず咳払い。
「ん……まぁ、なんだ。たまになら――」
「せんぱぁーい」
俺の逡巡だとか勇気だとか、そうした一切を無に帰すかのような独特な波長の声色。
我がクラスでは聞き馴染みのない響きに、俺や杠葉、坂井、多くのクラスメートたちの視線が惹きつけられる。
「えへへ」
教室の扉から顔を覗かせたのは――御存知、加賀崎佳乃だった。
アイドルのようなあざとい笑みを浮かべながら、女優のように堂々と肩で風を切るようにしてまっすぐ俺の方へ歩いてくるものだから、自ずと彼女が教室中から寄せられた視線が集束し、荷電粒子砲のように俺に解き放たれる。ジェノザウラーに貫かれたシールドライガーの気分だった。
「迎えに来ちゃいました、天ヶ瀬せんぱい」
やがて俺の机に辿り着いた加賀崎は天使のような笑顔を咲かせて、そう言った。
学年トップの学力を誇るさしもの俺でも完全に意表をつかれた状態では上手い返し文句が見当たらず、
「……こんにちは」
と精一杯の冷静さを滲ませてお茶を濁す。
まぁ清々しいまでのコミュ障ぶりを発揮したわけだが、これがいまの俺の全力なので恥ずかしくなどない。
「あれれ、なんですかその顔。もしかして私のこと忘れちゃいました?」
「や、そういうわけじゃないけど。あれ、なんか約束でもしてたっけか」
「あは、面白いこと言いますね」
会話が進むにつれ静まり返っていく教室。
空気が嫌な熱を帯びていく。
しかし当の加賀崎は意に介した様子もなく、涼し気に笑う。
「ほら、時間がもったいないです。さっさと行きましょ、天ヶ瀬せんぱい」
「ちょっ」
どこへ連れていくつもりなのかと質問する間もなく、加賀崎は俺の腕を引っ張り上げると、そのままズンズンと教室の出口へと進んでいく。
小柄な体躯のどこにそんなパワーが秘められているのだろうと驚嘆の念を覚えながら、俺は無抵抗のまま教室の外へと引き摺られていく。咄嗟に通学用カバンを引っ掴んだ自分を褒めるべきか、女の子に為すすべなく連れられる自分を戒めるべきか。
チラリと肩越しに後ろを見遣ると、杠葉や坂井の呆気に取られたような表情。
お騒がせしてすみません。
*
『今日から部活も再開なので陸上部のみんなにせんぱいのことを紹介しますね。とりあえず部室棟の前まで行きましょー』
などという言葉に従って下級生に手を引かれ、部室棟前に勢揃いした女子陸上部の面々との顔合わせと相成ったわけだが、そこでのやり取りについてはあまりにも居た堪れないため大半を省略させていただくことをご容赦願いたい。
一応簡単にかいつまんで説明すると、とりあえず俺は『長距離ランナーの親を持ち、コーチングに優れた男子生徒』といういかにも漫画にありそうな大嘘を引っ提げて、しばらくの間、加賀崎の専属コーチを務めるという体をとるらしい。
いや、どう見てもただの男子生徒やないかい。
なんなら運動できなさそうな方の色白もやしやないかい。
――そんなツッコミがそこかしこから聞こえてきそうな、女生徒たちからの懐疑的な視線が心に突き刺さる。
なんだいこれは?
この世の地獄かい?
しかし幸いにして、部員から異論や質問が飛んでくることはなかった。陸上部エースたっての決定であり、またあくまで加賀崎の専属コーチであるという建前も影響したのだろう。
要するに勝手にやってくれということらしい。
いやほんと助かった。『効果的なトレーニング方法を教えてください』などという即死魔法が飛んでこなくてよかった。
「ふぅ、みんなへの紹介は良い感じでしたね」
「……お前とならこの世の終わりでもポジティブでいられそうだな」
「え、なんですかそれ? 口説いてます?」
「違う」
「ふぅん。ま、なんでもいいです。それじゃ、あとは余計なぼろを出さないよう、役立たずのせんぱいは邪魔にならないところでうろついててください」
「おいおい言葉のトゲでも人は死ぬぞ」
そんなこんなで一時リリースされた俺は、手頃な木陰に腰を下ろし、グラウンドで部活動に励む加賀崎の様子を遠巻きにボーッと眺めていた。
知らん人がみたら陸上部女子を視姦する変態のぞき魔に映っていないだろうかという不安を抱えながら、同時に膝も抱える。
「せんぱーい、タオルくださーい」
「へい」
「ボトルお願いですー」
「へい」
時折こちらに駆け寄ってくる加賀崎の相手を律義にこなしながら、清々しいまでに澄み切った青空にどんよりと思考を浮かべる。
……これ、毎日続くのかなぁ。




