第32話 神楽坂詩の目論見
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そこから約二週間――いや、正確には一週間と少し。特に大きな出来事もなく、静かな日々が続いていた。杠葉と共犯めいた関係になってからの数週間と比べれば、驚くほど平穏な日常だったと言っても過言ではない。学年で二番目に可愛い女の子と一緒にボルダリングや料理をすることも、学年で一番に可愛い女の子と放課後にラーメンを食べたり夕暮れの川沿いを散歩することもなかった。これまで俺が生きてきた十数年の中で間違いなく最も濃密な期間だったし、もし死の間際に走馬灯なんてものを鑑賞することがあるのであれば、その大部分は杠葉と神楽坂との思い出になるに違いない。と言っても、規定の十倍以上薄めに作られたカルピスに原液が足されてようやく飲めるレベルになったような程度なのだけれども。
杠葉は文化祭実行委員の準備が佳境に入り、放課後に会う機会はめっきり減っていた。ならば昼休みにと考えても、彼女の周りには常に誰かがいて近づくことが出来なかった。聞くところによると例の弁当を作った日以降、なぜだか文化祭まで昼休みはみんなで一緒に食事をしようということになったらしい。ははん、人気者はつらいね。
展覧会準備を含めて俺は俺で放課後にやらないといけないことがいくつもあり、いずれにせよあまり杠葉と作戦を練る時間は作れなかったのだが、今の俺にとってそれはありがたくもあった。
正直に言えば、杠葉と顔を合わせるのは少し気まずかった。先日のラッキースケベ事件以来、どういう顔を彼女に向ければいいのか、全くわからなくなっている自分がいる。あの時の柔らかな感触が手にこびりついて離れない。こういう時はきちんと忘れてやるのが義理なのだろうが、残念ながら俺はそこまで器用ではなかった。これが一条であれば数あるうちの一つにでもなったのかもしれないけれど。
杠葉曰く一条の動向はあの尾行以降も気にかけていたらしいのだが、特にボロを出すことはなかったのだという。神楽坂の方から会うことを断っていたのだからそれはまぁ当然の話ではある。従って現状証拠と言えるのは、放課後の教室で抱き合っていたあのシーンと、尾行時に撮った写真計百枚ほどだ。正直、浮気の証拠として突きつけるにはやや根拠が薄いのではと心配になる。
それに、一条が浮気を認めるかという点以上に、ヤツが杠葉と別れることを承知しないのではないかと個人的には大いに危ぶんでいた。『わたし、学年で一番のイケメンであるあなたと別れて、学年で一番友だちが少ない天ヶ瀬くんと付き合うことにしたの!』だなんていきなり言われても現実味がなさすぎて冗談としかとられないんじゃないだろうか。
しかし当の杠葉は妙に楽観的な感じで、「まぁなんとかなるでしょ! もしごねたとしても、最悪あいつの前で天ヶ瀬くんとちゅーしてる姿を無理矢理みせつけちゃえばいいんだよ!」などとバカなことを言っていた。いやほんとバカかよ。
自分の悲願の根幹を随分とあいまいな作戦に依拠しているように思えて、どうにも不安は拭えない。とはいえ杠葉がそれでいいと言うなら、成功しようが失敗しようがそれに従うだけではあるが。俺はどういう形になろうとあいつの言う通りに動き、あいつの骨を拾ってやるだけだ。
しかし不安な点はそれ以外にもある。言うまでもなく神楽坂のことだ。
なんやかんやで仲良くなってしまった感があるので忘れかけていたが、あいつの目的は『杠葉のシナリオ通り俺が神楽坂をフッたように見せかけて、裏側で親しくし続ける』ことだ。神楽坂は呑気にも「一条くんをぶっ潰す時が来たら呼んでちょうだい。その時だけは盛大にピエロ役を務めてあげるわ。安心して。『ジョーカー』も『ダークナイト』も観たことはあるからピエロ役はばっちりよ」だなんてことを言っていたが、その言葉を受けて何を安心しろというのだろう。
ともかく神楽坂としては表面上の杠葉の目標達成には基本的に協力的である。このスタンスは最初から変わらない。一方の杠葉も「どーせ神楽坂さんともよろしくやってるんでしょ? 放課後にわざわざ二人きりで密会までしちゃってさぁ」とぶちぶち言いながらも「一条と二人して開き直って徒党組まれても厄介だから各個撃破していきたいところだね!」とテンションは高い。そうは言っても神楽坂方面についてはダメで元々というのは杠葉もわかっているようで、あくまでメインディッシュには一条を据えてくれている。
「ダメで元々……ねぇ」
喧騒に包まれた廊下を闊歩しながら、誰にも聞こえないように注意を払いながらそう呟いてみる。
今日は文化祭前日。校舎の内外あちらこちらで生徒たちが忙しなく往来している。様々な資材や作りかけの内装が廊下に置かれていて、よそ見をして歩いていると踏んでしまいそうだ。
通常授業を取りやめして文化祭の準備は行われている。本来であれば真面目に黒板と向き合っているであろう時間にこうしてクラスメートとお喋りを交わしながら作業に勤しむというのは、どことなく非日常感を感じて気分が高揚するものなのだろう。その気持ちはよくわかる。この俺でさえ、ほんの少し浮ついてしまっているくらいだ。
クラス展覧会の準備は文化祭の出し物が行われない空き教室で行われている。準備と言っても、事前に原稿やレイアウトはすべてA4用紙に印刷したうえでそれを模造紙に転記する程度なので大した労力ではない。まぁ他クラスには発表内容すらまとめきれていないところもあるようだが、俺がこのクラスにいたのが運の尽きだったな。俺が担当する限りにおいてそうした事態は発生し得ない。ところで運というのは誰にとっての運なのかね?
俺が必要なマーカーを取りにクラスへ戻っているところだった。学校からは黒と赤のマーカーが貸与されているが、どうせならもっと多彩な色を使って可能な限り見やすく工夫された成果物を作りたいと考え、家から自分のマーカーを持参したのである。愚かなことに、それらを鞄の中に入れたまま教室に置き忘れてしまったためにわざわざ戻っている次第だった。自分のまぬけさを呪いつつも、忘れてしまったものは仕方ないと割り切りながらこうして廊下を一人で歩いている。ちなみに神楽坂は作業部屋に待機中だ。他のクラスメートたちが楽しくクラスの出し物準備に勤しむ中、鬱屈とした単純作業を続ける少年たちにとって神楽坂の存在は砂漠の中のオアシスに違いないだろう。
神楽坂――神楽坂詩。
あの日出会った――女の子。
神楽坂とは川沿いを散歩したあの日以降も度々勉強会や展覧会準備で顔を合わせる機会はあったが、特に変わった様子はない。いつも通り何を考えているか読めない表情で、これまでと何ら変わらない淡々とした毎日を過ごしている。もう少し何かしらのアプローチがあるのではと身構えていた俺としては正直拍子抜けする。
アプローチ、だなんて表現を使うとやや自意識過剰な感じがして本当はあまり好きではない。
ないのだけれど、それでも彼女の話を聞いて何も思わないほど朴念仁でも、忘れっぽくもない。目の前で起こったことに対して、どうせ俺には関係ない話だなどと全て切って――割り切って捨ててしまうほど厭世家を気取るつもりは毛頭ない。
彼女の話に出てきた男の子とは俺のこと――だと思う。確証はないが、しかし俺の方にも似たような記憶がある。いやまぁぶっちゃけた話、神楽坂に言われるまではすっかり忘却の彼方に追いやってしまっていたのだが、確かに中学三年の頃は受験勉強のためにあの図書館近辺には何度も立ち寄ったことがあるし、迷子の子どもを交番に送り届けている途中で同い年くらいの女の子にお金を貸したこともぼんやりと覚えている。けれど、本当にぼんやりって感じだ。可愛らしい子だったことはなんとなく覚えていたが、それが神楽坂だとは全く思わなかった。俺の記憶の中のその子はだいぶ幼い感じの印象で、孤高を体現したような今の神楽坂とは到底一致しそうにない。ここ数年で神楽坂が一気に大人っぽくなったということなのだろうと思う。
きっと、先日あの場所に行ったのも偶然ではないのだろう。なんなら休日の勉強場所としてあの図書館を選ぶことまで彼女の想定通りだったのかもしれない。まんまと彼女の目論見通りに動いてしまったというわけだ。
神楽坂は名も知らぬその男の子に惹かれた、と言った。それはつまりその当時の俺に惹かれたということになる。それを仮に恋心であると仮定すると、話が一気に繋がっていくような気がした。
それのリアリティはさておきその仮定が正しいとするならば、神楽坂が復讐心を抱いた原因は俺だったのかもしれない。つまり神楽坂は俺に惚れていて、学級委員の立場で俺と仲良くする(神楽坂視点)杠葉に憤って復讐を企てた、ということになる。俺と杠葉が仲良くしていたというのは、時系列を考えれば神楽坂の完璧な誤解なのだけれど。
……いや、自分で考えていても思わず笑ってしまいそうになる。ここまであれこれ考察を重ねておきながら、未だにこれが自分のことだという実感が全く湧かない。学年一の美少女に知らないうちに惚れられていたなんてあまりに現実離れしすぎていて、まるで他人事のようだ。それどころか、漫画の中の話だと言われても納得してしまうほど出来すぎている。
もちろん、今でも神楽坂が俺のことを憎からず思っている確証はどこにもないのだけれど、少なくともああして俺に過去を語ったということは何かしらの俺に伝えたいことがあるのは間違いないだろう。
けれどどのような意図がそこにはあったのか、俺にはわからなかった。もしも俺に対して本当に好意があるのならば、あの場で俺に対して何かしら言及があってもいいだろうし、そうでなくても俺と二人きりの時間はたくさんあったのだから、如何様にでも出来たことだろう。あの日以降ノーアクションというのがこれまた俺の頭を悩ませていた。
あいつは一体何を考えているのか――そんな答えのない問いが脳内をぐるぐると回遊する。これを言い訳にしたくはないが、ここ数日間、勉強に全く集中できていないのも事実だ。おかげで最近は神楽坂の顔もまともに見られていない。
神楽坂が本当に今でも俺に対して何らかの感情を抱いているのかまでは定かでないが、あの女がアクションを起こしたということは、少なくともそこに何らかの思惑があったことは間違いない。意味のないことはしない女だ。
じゃあ神楽坂本人に直接好意があるかどうかを聞けばいいじゃないかという意見は至極ごもっともだが、そんなことをできる人間を俺は天ヶ瀬陽太郎とは呼ばない。奥ゆかしさの塊のような男なのだ。チキンとは決して呼んでくれるな。
……これで全て俺の勘違いだったらホント恥ずかしいな。もう二度と神楽坂の顔を見られなくなりそうだ。
俺はそんな悶々とした感情を抱きながら教室へと歩みを進める。
普段使用している教室は出し物の準備で飽和状態にあるため別の空き教室に鞄は置いてある。ちなみにうちのクラスの出し物は無難に喫茶店に決まった。漫画やアニメでよくあるコスプレ喫茶とかではなく、普通の休憩所の方がイメージとしては近かろう。提供するメニューもソフトドリンクとコーヒー、紅茶、あとは簡単なお茶請けくらいと聞いている。ややスケールは小さくなってしまっているのは、そういうイベントを引っ張るトップカースト組がこぞって実行委員に取られてしまったことも影響しているのかもしれない。
俺はようやくたどり着いた教室の中を覗き込む。例の一件以来、入室する前に様子を窺うのがなんとなくのルーティーンになっていた。あんな場面に出くわすのはもう御免だ。
中には一つの人影が見える。うむ、一人なら安心だ。俺は戸口を引き開ける。
「……うっす」
「……よう、天ヶ瀬」
一条健矢の姿がそこにはあった。