9 アリスと祝事
第九話
翌日、何の変わりもない魔女達の朝餉が始まる。
昨日あんな大きな戦いなどなかったかのようにアリスは鼻歌を歌いながら朝食の支度をしていた。
「ねえマリス、アリスは結局あの“ウンディーネの涙”を何に使ったのかしら?」
「んー……“アレ”は色々用途があるからねぇー……」
“ウンディーネの涙”とは強力な水の魔術が込められた秘薬だ。涙とは喩えであって、水の精霊の体から分離した魔力の結晶であると言ってもそれほど語弊はない。
「解毒剤、惚れ薬、死者操り(ネクロマンシー)……高等な水の魔術を用いるのには必須の材料だしぃ、錬金術の深奥に挑むために必要なのかもしれないねぇ……」
「はい、お姉さま!」
ほかほかと湯気の上がるスープの入った鍋がテーブルの上に登場する。
「おー、こりゃ美味しそうだねぇー」
「はい、私特製のコーンスープですよ!」
アリスはお玉でそれぞれの皿にスープを盛っていく。ことりと音を立ててスープが配膳された。
「こっちは菜っ葉のサラダですよ。ドレッシングをかけて召し上がれ」
テーブルの中央に大きなサラダの入った皿が置かれる。
「そしてトーストエッグです!」
カリっと芳ばしく焼いたトーストの上にとろりと半熟の目玉焼きが乗せられる。
「まさかこの料理の中に混ざってる、なんてことは……」
「ありえないねぇー……。第一、あんな強力な秘薬が混ざってれば魔力で気付くよぉー」
「どうしたんですか、お姉さま?」
アリスは屈託のない表情で二人に尋ねる。
マリスとイリスは顔を見合わせて笑うと、スープをずずずとすすった。
朝食を終えると、アリスは薬を売りに街へ出かけてしまった。
そんな午前をマリスとイリスはのんびりと過ごす。
「今日は尾行しなくていいの?」
「雛女を行かせたよぉー。あっちは雛女に任せるとして、こっちはこっちでやることあるからねぇー」
マリスはそう言うと、遠慮なくアリスの部屋の扉を開いた。
「ちょ、ちょっとマリス!」
「お邪魔しまーす」
マリスは特に気にした風でもなく部屋の中へ入っていく。その後をイリスが追いかけた。
「ちょっと! いくら姉妹でも勝手に部屋に入るのは……」
「ふふーん、細かいことは気にしなーい」
他人の部屋が物珍しいのか、マリスは棚に並べられた薬の材料を覗き込んだり、本棚に収められた書物のタイトルに目を走らせたりしながら作業台へと向かう。
「それに、アリスがそんな貴重な材料を放置してるわけが……」
「あったよぉー!」
「ええッ!?」
マリスは作業台の上に置かれたフラスコを指差す。
「強力な水の魔力を感じるよぉー。姉さまも感じるでしょう?」
「ええ……。間違いなくこれだと思うけど……」
二人はフラスコを覗き込む。昨日見たときは透明な水のような液体だったが、今は薄い透き通るような青の液体へと変わっている。
「マリス、何の薬かわかる……?」
「これはねぇ……。なるほどねぇ~……。そういえば今日はアレだったけなぁ……」
マリスはしばらく薬と睨めっこしていたが、やがて顔を上げる。
「わかんなーい」
「今、なるほどねって言わなかった?」
「知らにゃーい」
マリスは鼻歌を歌いながら部屋を後にする。
「ま、アリスが帰ってくればわかるんじゃなーい?」
「本当にわからないの?」
「にしし、わからないものはわからないんだよぉー」
わからない割にはやけに上機嫌なマリスにイリスは疑問を覚えたが、イリスにはその薬の正体がわからない。マリスもわからないと言っている以上、追及しても無駄だと思った。
「ったく、しょうがないわね……」
「にしし、すっかり忘れてたなぁ……。アリスはマメでいい子だなぁ……」
「?」
マリスは後ろ手を組みながら部屋を後にする。
「姉さま、あたししばらく部屋に篭るよぉー。覗いちゃダメだよぉ?」
「いきなりどうしたのよ?」
「ヒ・ミ・ツぅー」
マリスは部屋に入ると鍵をかけてしまった。イリスはため息をついた。自分だけ除け者にされているような気分で、イリスはがっくりした。
「ま、しょうがないわね……。あー、なんかやな気分」
イリスは大きく伸びをすると、自分の部屋へと向かった。
夕方になり、アリスは薬売りを終えて店仕舞のしたくをしていた。
「妹! 妹! マリス様からの言伝です!」
そんなアリスの元へと雛女は飛んでいく。
「あら雛女さん。どうしたんですか?」
「実はですね……」
雛女はアリスに言伝の内容を伝える。
「もちろんわかってますよ! これから帰りにパン屋さんに寄っていこうと思ってたところなんです」
「これ、マリス様から預かってきました」
そういうと、ずっしりとした袋をアリスに渡す。
「まあ、マリスお姉さまったら、もう!」
「せっかくだから派手にしろ、とのことです」
「わかりました。雛女さんもお手伝いしてもらっていいですか?」
雛女は渋るような表情を浮かべていたが、やがて首を縦に振る。
「マリス様からの命令ですから……」
「あはは、お願いしますね!」
やがて日は西に沈み、月と星が空を支配する時間となった。
アリスはなかなか帰ってこない。マリスは部屋に篭りっぱなし。イリスは食糧係がいなくてお腹が空いた。彼女はじたばたしながら缶のクッキーをかじって妹達が戻ってくるのを待っていた。
「ただいまですー!」
「飯ぃーッ!」
アリスが帰ってきてイリスの第一声がそれだった。
「マリスったら朝からずっと部屋に篭りっぱなしだし! 仕方ないからお昼にポトフを作ったらちょっと失敗して真っ黒になるし! だからずっとクッキーしか食べてなくてお腹空いたのよ!」
「あはは……。大変でしたね」
アリスは乾いた笑いを浮かべる。確かに彼女だけでは昼食もまともにとれないだろう。
「ところで……その大荷物、何?」
「え、これですか?」
アリスは両手に布袋パンパンに詰め込んだ荷物を持っていた。後ろについてきていた雛女も一つ袋を持たされている。
「えへへ、秘密です。ささ、姉さまはもう少しだけ部屋で待っててくださいな。すぐに美味しい料理を作りますから!」
「えー、まだかかるの? 簡単なものでいいからパパっとできるものにしてよ」
「そういうわけにはいきません! 今日は特別ですから!」
そう言うとアリスはイリスを部屋に追いやる。
「言っとくけど、私三十分しか待たないから」
「もう少し待ってもらえると助かります……」
イリスは不満な表情を浮かべて自室に入った。
「あー、お腹空いたぁ!」
彼女はベッドにどさりと倒れこむ。
「お腹が空いたときは寝てごまかすのが一番ね」
そう決め込むとイリスは目を瞑った。
お腹が空いてたまらなかったが、すぐに眠気はやってきた。
イリスは眠りの波に意識を飲まれていった。
「イリスお姉さま! 準備できましたよ!」
「にゃはは、お昼はごめんねぇ~……。つい夢中になっちゃってさぁー」
イリスは部屋の外が騒がしいので目が覚めた。時計を見ると、彼女が部屋に入ってからきっちり三十分しか経っていない。本当にアリスは三十分で仕上げたのだろう。
「やっとご飯にありつける……」
イリスはフラフラしながらドアノブに手をかけ、扉を押した。
「お姉さま、おめでとうございます!」
「にゃはは、おめでとぉー!」
「……え?」
ダイニングはちょっとしたパーティ会場となっていた。
魔力のこめられたロウソクが部屋のあちこちを様々な色で飾っており、色とりどりな紙のテープが天井を駆けめぐっている。
「これ……何?」
「何言ってるんですか! 主賓はどーんと構えてくださいよ!」
「にゃはは、もしかして姉さま、忘れてる?」
アリスとマリスに手を引かれて、イリスはテーブルへと連れていかれる。
「え、え?」
マリスとアリスはクラッカーを手に持つと、紐を引いた。
パーンと小気味のいい音とともに紙テープと紙片が飛び出す。
「お誕生日おめでとうございます!」
「にゃはは……あたしもアリスが“アレ”を作ってるのを見るまで忘れてたよぉー……」
「え……誕生日?」
仔牛のロース、トマトのクリームスープ、魚介類のサラダ、それからグリーンピースのハム炒めと様々な料理が狭いテーブルに並べられている。
「あ、そういえばそんなもんもあったかしら」
「にゃはは、姉さま自身が忘れてちゃ世話ないよぉー」
アリスはヴェルモットのボトルを取り出すと、グラスに三人分注ぐ。
「さ、座ってください!」
アリスはイリスを椅子に座らせると、自分も椅子に座った。続いてマリスも席につく。
「それではぁー、不肖ながらわたくしマリスが乾杯の音頭をとらせていただきまーす」
マリスはグラスを高く掲げる。アリスもにっこり笑ってグラスを掲げた。
「それじゃあ……」
イリスもグラスを掲げる。
「お姉さま、お誕生日おめでとうございまーす! かんぱーい!」
「かんぱーいです!」
「え、えっと……とりあえず、かんぱーい!」
三人は食前酒を胃に流し込むと、魚介類のサラダを皿に取り分ける。
「わ、これ美味しい!」
「マリスお姉さまったら奮発して私に50ゴールドも持ってきたんですよ! だから、ちょっと今日は贅沢して美味しいお店で材料を揃えちゃいました!」
三人は次々皿を空にしていく。どれもこれも美味しい料理ばかりで、三人の手は止まらなかった。
「ふう……美味しかったわ」
「まだまだこれで終わりじゃないですよ?」
そう言ってアリスが取り出したのは大きなケーキ。白い生クリームと赤いイチゴで彩られたデコレーションケーキだ。
「じゃあマリス姉さま、ランプ消してもらえますか?」
「おっけー!」
マリスは口早に呪文を唱える。すると、部屋を明るく照らしていたランプが全て消え、部屋の中は小さなロウソクだけが灯っていた。
マリスはロウソクをケーキに立てると火を灯した。
「じゃあ私が思いを込めて歌います!」
アリスは大きく息を吸い込むと、美しい声音で歌い始める。
「This is a bonanza year♪ This is a bonanza year♪ I will work for the welfare of my sister♪ This is happy birthday♪ Let me wish you a happy birthday♪」
その後をマリスが継いで歌う。
「This is a pleasant year♪ This is a pleasant year♪ I wish you a happy this year♪ This is happy birthday♪ Let me wish you a happy birthday♪」
そして二人の声が重なり合う。
「「Let me wish you a happy birthday♪ Let me wish you a happy birthday♪ Happy birthday to you♪」」
「二人とも……ありがとう!」
イリスは大きく息を吸い込んでケーキの上に並ぶロウソクの火を吹き消した。
ぱちぱちとマリスとアリスが手を叩く。
「お姉さま、お誕生日おめでとうございます!」
「姉さま、誕生日おめでとぉー!」
マリスがぱちんと指を鳴らすと、再びランプが部屋を明るく照らす。
「さ、ケーキ取り分けましょうか!」
アリスはケーキを六等分すると、一番大きいケーキをイリスの皿によそった。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
三人にケーキが分けられると、彼女達はケーキを食べ始める。
「んー、いいねぇこのケーキ。どこで買ったのぉ?」
「パン屋さんのシャトレーズ商店のとこで焼いてもらったケーキです。特注品ですよ!」
「あー、シャトレーズ商店のケーキは美味しいよ。あそこは一級品だねぇー」
「これは……イチゴとモモ?」
「大当たりです!」
三人は残りのケーキも平らげるとひとまず紅茶を淹れる。
「さーて、それじゃあプレゼント贈呈といきましょーかぁ!」
マリスは一度部屋に戻ると、一本の棒を持って戻ってきた。
「じゃーん! 姉さま用に微調整したスタッフだよぉー。姉さまの魔力の質に合わせて高出力魔術も余裕で耐える高耐久、そして強力な魔力をさらに増幅できる高出力仕様のスペシャルバージョンだよぉー! ちなみに材はとねりこ製で、芯にフェニックスの尾羽を入れた超高級品! 大事に使ってねぇー」
そう言ってマリスはスタッフをイリスに手渡す。
「ありがと! でも私そんなに魔術使わないしな……」
「それはこれからびしばし教えていくから覚悟してねー!」
そして続いてアリスの番である。
「マリスお姉さまのプレゼントに比べたらちょっと地味ですけど……私はこれです」
そう言って彼女が差し出したのは今朝アリスの部屋の作業台の上に置いてあった青い薬の入ったフラスコだった。
「これは……?」
「“ウンディーネの涙”っていう貴重な秘薬を使って作った霊薬で、神髄っていうお薬です」
「神髄……?」
「効果は飲んでみればわかると思います」
アリスはフラスコをテーブルの上に置く。
「ささ、姉さま。ぐぐっといっちゃってぇー!」
「え、ええ……」
イリスは半信半疑だったが、その薬の栓を抜くと、一気に飲み干した。
「こ、これは……?」
「ふふふ、あたしのプレゼントもこれで生きるというモノだよぉー」
マリスはニヤニヤとした笑みを浮かべる。アリスは少し不安そうな表情を浮かべてイリスを見つめる。
「ちゃんと……効いてますか?」
「えっと……何か変なのはわかるんだけど、何が変なのかわからないわ……」
「にしし、姉さま、火起こし(イグナイト)でこの紙燃やしてみてぇー」
そう言うと、マリスは一枚の紙を指で挟んでぴらぴらさせる。
「え、でも……危なくない? だって私の火起こしじゃマリスの指まで燃やしちゃうかも……」
「大丈夫だから、ねぇ?」
「……わかったわ」
イリスはさっそくもらったスタッフを手に持って構えると呪文を唱える。
「えい!」
紙から一筋の火が立ち上る。だが、それは紙の先端だけを焦がし続け、マリスの持っている部分には少しも燃え広がらない。
「え、ええ!?」
「姉さま、意識を集中してねぇ? 持ってるこっちもちょっと怖いんだよぉ?」
「わ、わかったわ!」
イリスは燃え上がる火に意識を集中させる。
マリスの指を燃やさないよう、そして火が消えないように維持させる。今までこんなに器用な調整ができなかったのに、イリスは見事炎を操ってみせた。
やがて火は紙を燃やし尽くして消えてしまう。だが、マリスの持っていた部分はわずかたりとも燃えていない。
「え、ちょ、これってどういうこと!? あんなこと、私できなかったのに……」
「神髄はですね、服用者の魔力コントロール精度を高める効果があるんです」
「つまり、魔術を細かく操る精度を高める効果があるってわけぇー。あたしやアリスが飲んでもそんなに効果はないと思うけどぉ、魔力はたっぷりあっても魔術を上手く使いこなせない姉さまにはぴったりの薬なんだよぉー」
「私……魔術が上手になったの……?」
「ま、早い話がそういうことだねぇー。薬が効いてる間に練習して魔力を上手く扱えるようになればおっけーってことだよぉー」
「高級な材料を使うだけあって、効果時間はとても長いです。ゆっくりで構いませんから、魔力コントロール技術を身に付けてくださいね」
「私の……魔術上達のため……?」
アリスとマリスはにっこり笑った。
「明日からびしばし鍛えるよぉー!」
「イリスお姉さま、頑張ってくださいね!」
イリスはスタッフをぎゅっと握りしめる。
「二人とも……ありがとう!」
こうして、ちょっと特別な一日は幕を閉じた。
イリスはちょっとしたワクワクを胸に秘めながら、マリスからもらったスタッフを壁に掲げる。
「私が魔術……かぁ……!」
ドキドキでイリスはなかなか寝付けなかったが、ベッドの上で横になって目を瞑っているうちに自然と眠気がやってきた。
彼女の見た夢は、様々な魔術を見事に使いこなす、そんな魔女らしい自分が活躍する夢だった。
とある祝日の昼頃、その少女は彼女らの元を訪れた。
いかにも魔女というような服装、そして胸元に輝く金色の太陽と銀色の月が交差する紋章を象ったバッチ。
そんな彼女が平和な昼下がりに少しの騒乱をもたらすことになるとは、誰も思いはしなかっただろう。
次話、10 マリスと来客