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さようならの季節・1

 額が外されていく。


 さしたる大きさでもなく、車の後部座席に置けば充分といった程度のもの。かな文字で綴られた、万葉の歌の一節。


 いまになって、ようやく、これを認めた日のことを思い出す。眞波との縁談が整い、結納を行う少し前だ。夕暮れへ向かおうとする黄金の陽射しの中、戯れもいいところに筆をとった。


 あの日と変わらぬ昼下がり。おれは、それをそっと床に置いた。


 部屋の隅からこちらをうかがう影がある。家政婦の山本が、掃除道具を脇に置いて、立ち尽くしていたのだった。


 廊下には、おれの、わずかな持ち物の類。車で一度運べば、すべて終わる。


「業者が、家の中の不用品を運ぶと聞かされていたでしょう」


「はい」


「まさか、わたし自身がやって来るとは思っていなかっただろうし、だからこそ、あなたがいる時でも嫌がらなかったはずでね」


 額の周りには、ほとんど埃はない。普段から、掃除も行き届いていたのだとわかる。


「山本さん、黙りとおしていてくれたんですね。結果としては、こうしたことだけれど!」


 おれは自嘲した。やり場のないものを、そうして取り繕ってみせた。


「この額の書はお気に入りなんですね。これは、どうしても、持って行かれるのですね」


「わたしが書いて、唯一、額装できたものですから」


 外から入る光は、雲の動きで、影は自由自在。山本の表情も曇らせにかかる。


「きっと、ここにいらしていたかたは……羨んでいたんだと思います」


 リネン素材が陽に透ける。おれの形が、ひとまわり痩せた男の、ぼんやりした絵になって、額に映り込む。これを仕上げたときのように。


「この書を真似た……もとの字を、ご自分なりに作品として仕上げようとして、反故にしたものが、いつか、たくさん捨ててありました」


 山本は、このかな文字が解読できる人物であったのだ。


「履物も、ここにしまってある靴と同じブランドばかりでしたし、クローゼットの中にある服も、クリーニングを頼まれたシャツと、みな同じことでした」


 服のサイズまで並べて確かめることなどはすまい。よしんば、違っていたとしても、体型が変わったとしか思わないだろう。ネームのあるなしで、いちいち考えるわけもない。


「ただ、香水はお使いにならなかったのか、一向に減らないなと思っていました」


 趣味の良い、洋酒のコレクション。バスローブから覗いた、生々しい、男の素肌のつやめき。そのかれが、なにを思い、一人ここで筆をとっていたというのか。


 額に落ちた淡い影を眺める。こちらを見返す瞳は映らない程度に見切れた、顔のない男の姿がそこにあった。


「他人のことなんか見ずに、自分のあしたを見ていればよかったのに……」


 三好慶彦は、そのブランドを、本当に愛していたのだろうか?


 どれもこれも、決まりきった作りに、自分自身をゆがめ、合わせていたというのか。


 その最たるものが靴であろう。バランスを崩して転んだ程度で、ああまで大怪我になるはずもない。無理をしていたのだ。眞波から指図されたかなにかで、合わないものを履いていたのではないだろうか。かれは、そうまでして、石倉良になろうとしたというのか。


「どうして。おれを羨む必要なんか、あったものかよ。かわいそうに。不自由な思いをするばかりじゃないかよ……」


 黄金の波のように入りこむ昼光の最中を、なんの抵抗も受けず歩いて、出て行く支度を捗らせる。開けたままのドア。運び出すのは、大ぶりのトランク二つ、三つ。そしてあの額。


「最後まで、わたしには会わなかったことにしておいてね。それでは、ごきげんよう」


 山本はなにか答えようとしていたが、不意に声を詰まらせ、頭を下げた。玄関先まで出てきたが、また深々と礼をするばかりだった。


 ミラーでたしかめても、長い間、そのままの姿勢でいた。


 おれは自分の意志で、今度こそ、ここを出ていく。


 建ち並ぶ幸福たち。どこからも子どもの歓声は聞こえない。


 遠くで、終業のチャイムが鳴った。

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