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逆回りの時計・7

 遠くに見えてしまう水の粒。ひとつひとつに、その瞬間が輝きながら入りこんだ……と思いきや、はかなく弾けてしまう。おれは少し窓の外を眺めて、うつむいたり、グラスの中の海にあたりを映してみたりした。いたずらに時を流して二、三分。ふとおれは顔を上げた。


「方俊さん。お願いがあるのです」


 言葉にはたと向き直る。おれを見る双眸の奥底が光る。方俊の表情はみるみるうちに引き締まり、最上級のスーツを着て人前に出るときのそれに豹変した。


「なんだろう」


 ひと息つく。拒絶の響きではないものが耳に届いた。


「人を探していただけませんか。手がかりは少なく、はっきりいって絶望的です。けれども、できるだけのことをしておかなければ、わたしは一生後悔するでしょう」


 おれをとらえた、真っ直ぐな視線は動かない。しかしすぐに、ソファーの横にある小さな机の引き出しから、メモパッドを取り出して寄越した。


「わかるだけでいい。その相手のことを、出来得るかぎり、過去のことだろうが何だろうが、残らず書いてくれればいい。草の根を分けてでも探し出す」


 加瀬るみ。その母の名。営んでいた食堂の屋号。近くの港。通っていた学校。そして、加瀬老人の家の住所までも、記していった。


 お願いします、と方俊に渡す。


「誰だい、これは」


 おれは目を伏せる。それを手のひらで作った影に隠す。


「わたしが、森家にお世話になる前、加瀬史弁護士のもとにいたのはご存知ですね。そこの、養女ですけれど、その子と、将来はと」


「ふむ。どうでも良のものにするかね。その算段までしようか」


「いえ。幸せにしているなら、それでいいのです。けれども、そうでなかったら、すぐにでも行って、わたしは、約束を……」


 なんとか視線を合わせると、方俊は、こちらをやさしく見つめていた。


「親父が、むかし好いた女を探していたのも、知っていた」


 もうかれは、実業家としての厳しい表情をしまっている。


「ずっと、良は、親父とそのひとの間の子どもだと思っていた。しかし、後からわかった。親父が、長いことその女を見つけられずにいたことや、すでに世を去って久しい、ということも。そして、良は、一貫して真っ正直だということも、ね。親父が亡くなって、手のひらを返したようになったやつらが、山ほどいるというのに」


 メモパッドを置いて、体を深くソファーに沈めた方俊は、目を閉じた。


 雨音だけが、間断なく自然の調べを奏でている。


「擦り寄ってくるやつ、疎遠になるやつ。最たるものが、五百旗頭家だった。長一郎先生は、寄付の増額どころじゃない要求をしてきた。欣二さんは、あからさまに付き合いを断ったり、距離を取り始めたよ」


 方俊は窓の外を眺めながらこぼした。


「おれは所詮、究極の、名ばかり。親の七光りありきだったと思い知らされた。それでもこれから、やっていかなくてはならない。カメラで生きていけるほどの才覚はないのだから」


 森汽船の新当主。その重圧に負けたとき、詰ることのできる人間が、どれだけいるだろう。


 あの上品な細君にしろ、別宅の華やかな女性にしろ、かれの慰めには充分ではない。もう、金銭などではどうにもならない類のものなのだ。


 かれが辛い思いをする、それ自体、財と権力が許してはくれない。


「親父が生きていたら、決してできないこと……欣二さんは、この機を待っていたのだ。初めから、計画通りだったといえるだろう。五百旗頭の本流の乗っ取りがうまくいけば、婚姻は継続。失敗したら、良とは別れさせるつもりでいたのだな」


 手元のグラスで喉を潤し、方俊は続けた。


「山中の息子、慶彦はこれから眞波とめあわせて、五百旗頭を名乗らせる。そして、うまく取り込んだ船関係……ここではアズマ・マリンレジャーか。それを傘下に置き、海へと打って出てくるはずだ。あとは五百旗頭傍流になったところがタッグを組んで石倉潰し、五百旗頭本流も取りこんでしまうまで、追い詰めるだけ。海のノウハウを掴ませるために、慶彦を石倉海運に潜り込ませていたのだな」


「だから、ああまで、強気でいられたわけか……」


 独りごちたおれの言葉を、方俊は取りこぼさなかった。


「どういうこと」


「通いのお手伝いさんが、わたしを侵入者と勘違いして騒いだことがありましてね。問い質したら、別な男がここの主人だとして振る舞っているという。それから注意深く動いていたら、なんと、ふたりが家にいるところに踏みこんでしまいましてね。いえね、わたしは、遊びなら見逃してやる、とドアの向こうに声をかけたんです。てっきり逃げると思っていたら、妙に堂々とわたしの前に姿を現したんです」


「なんてやつだ」


 方俊はビールを呷った。


「この機会を、あいつ、待っていたというのか!」


「それにしては、鉢合わせしないように、用心していた節もありますが。いずれにせよ、なかなかどうして、大した度胸じゃありませんか」


 あきれ顔の方俊。おれはしずかに笑う。


「かれに、それだけの野心があったならば、ね。これから、かれには、本当に、自由のない人生が待っているのですよ」


 雨脚は、一向に弱まる兆しもない。きっと、夜通しこのままだろう。


 空気はますます重く、湿気をはらんでぬるくなっていく。初夏を知らせる降りに違いなかった。

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