逆回りの時計・6
「山中め、親子して、どういうつもりなのか……」
グラスを空け、方俊は、ソファーに体を預けると、天を仰いだ。
おれの前には、閉じ込められた夜の海がある。弾ける泡が波を起こし、行き場もなく……。
「わたしは、かれを恨んでもいないのですよ」
そのままの姿勢で、おれに視線を移すのを見た。
「少しも怒りがなかった、といえば嘘になりますが、ね」
黒い水面に照明が映り込む。
真夜中の海苔漁の灯が、遠い過去からおれをとらえる。
闇を手繰り寄せれば、網に絡んだ実り。
このためだけに支度を続けた日々がある。思い出も、鮮やかさを失いつつあったが、それは単に、おれの記憶の経年劣化のせいだ。
過ぎ去った歳月のどこかで、今も変わらず輝き続けているに決まっている。
あの頃のこころに引き戻す呼び水が、おれの目の前で揺れている。
「わたしがいちばん頭にきたのは、眞波です。五百旗頭という組織を、好きにできそうだと計算したことではありません。そうした時、算盤を弾かない人間なんて、まずいないでしょう。秤に掛けて、わたしを選んだなら、それはそれでいいのです。けれども、三好くんは、どうすればよかったのでしょうね」
方俊の眼は見開かれている。
おれは、まばたきでそれを受け止める。
「支援を受けてきた身であれば、かれは、眞波や、五百旗頭家の言うなりになるしかなかったはずです。海運に入れさせたのも、眞波の差金でしょう。わたしには、かれが悩んでいたのがわかりました。かれから、新しい、しがらみのない人生を選ぶ機会を取り上げた。この酷さが許せませんでした」
どこかあきれたような表情が向けられている。予想はついていた。おれはかるく笑う。
「意気地なし。向き合うこともせずに逃げた臆病者。それも、ほんとうですよ」
「何とも思わないの、面子というものが……」
方俊を上目遣いに見た。
「石倉海運の社長というのは、表に出すこともできないような男。使いものにならない愚鈍。聞いたことがないわけは、ないでしょう」
グラスを置いて向き直る。
「世間様はいよいよ、石倉はつまらない、当たり前だとなめてかかる。誰も気にしない……」
方俊の眼に、怯えた色があらわれた。
更けゆく夜。から雷。光。間をおいて、音だけが遠くから響いてきた。
「おれは、そうじゃないことを知っている……けれども、誰にも言うつもりはない……」
新たなグラスを取って注ぐ、別の一本。方俊はビール党らしかった。やわらかな泡が、香りを逃さぬよう、閉じ込めていく。
「詳しいことはこれから詰めていきますが、間違って、よその血が、石倉を乗っ取るような事態にはならず、ほっとしています」
「それだけはあってはならないことだから、当然、さようならの取り決めのとき、一筆取っておかないとね。再婚可能になるまでの半年、その間に細工されてはかなわない。勿論、手はもう打ってあると思うけれど」
「慰謝料もなし。財産分与もなし。そのかわり、何があろうとも、わたしとの間には、子どもだけはありえない、認めないということで、離婚の条件としました。向こうも、のみましたよ。近々、弁護士を通して、完全に成立させる予定でいます」
「制裁がなさすぎて、すごいな」
「幸せになれるなら、なればいいのです。わたしには跡取りが必要です。決断は早いほうがいい」
「そこだよな」
雨が降りはじめた。間近の下草が、夜のなかで緑を鮮やかにする。
「ときに、方俊さん。五百旗頭の屋敷の、竹に花が咲いていたんです。あわせて、祠まで壊そうとしていると……」
おれは、庭の竹に花を咲かせたあとの加瀬家の一件と、石倉の様式をもっていた、大鳥家の祠が破壊された話をした。方俊は、少しも嗤ったりせず、真剣に聞いていた。
「いけないな。もしかすると、五百旗頭家は、大変なことになるかもしれない」
「波留だけは、助けてやりたいのです。あとの者はどうなったっていい」
二人とも、黙りこんでしまった。
雨はますます強く降り、水煙をたてはじめた。
ガラスに大きな粒が当たり、芝生には小さな水の筋が、川の様相を描きだした。
窓の外は水で浮き出る新しい画になって、二人の前にたちあらわれる。
部屋の隅、機能だけを追求した、半永久式のカレンダー。日付のブロックを、曜日のブロックの上に合わせて置くと、何年の何月であろうとも、対応できる。末日だけを無視すれば……。
「いっそのこと、波留さんを良の後妻に迎えてはどうだろう」
思いがけない答えだった。
「まさか。まだ成人したばかりですよ」
「どうかな? 憧れのおにいさまと結ばれる日を、夢に見ているのではないかな」
「いけませんよ、とても」
「なぜだい。五百旗頭なんて家、なくなっても構わないんだろう。よく考えてみろよ。皆して、良に仇なす連中ばかりじゃないか」
方俊は、くい、とビールを飲み干す。渋い顔をする。そしてまたもう一杯。
「波留さんは、眞波のいとこ。血の遠さは同じ。そもそも分家。格は石倉が上。元に戻るだけさ。五百旗頭自体を、なかったことにしてしまえばいい。いままでの話を聞けば、少なくとも、波留さんが石倉の人間になれば、竹の花だの、祠だのの累は及ばないはずだ。そうだろう?」
そこには、社長として手腕を振るった頃の、森行夫の面影が、たしかにあった。




