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逆回りの時計・5

 窓の外で時が移り変わる。シートに沈めた体は冷たいまま。昼の名残は淡く黄昏に消えていき、天頂から何者かが流した青墨が、空の大半を占めていく。


 そこにたどり着いた頃にはもう、夜のありさまだった。低い位置に据えられたライトが、建物の輪郭を闇に溶け込ませ、本来の高さを見失わせていた。


 知らないわけではない、遠慮がおれを初めてここを訪れる人にさせて、不慣れなさまは、真実と演技をいい割合に絡めたもの。だからこそ方俊は、おれを不躾だと思う様子がなさそうなのだ。


 テーブルには料理が並べられてあり、たかだか二人しかいないのに、体裁はビュッフェ形式であった。ドリンクの類もこれでもかと支度してある。興がのれば、バーテンダーの真似事だってできそうだ。


「好きなだけ、どんどんいこう。なんでもセルフでお構いなし。遠慮なし。ここではそういうルールで」


 方俊のほほえみには、思いやりの色がにじんでいた。何もかもわかっている人のそれだ。証拠はない。ただ、下を向いたとき、はりのある若白髪に隠れた横顔に、明らかだった。


 乾杯の後、つまみに、と手をつけた。ひと口運ぶと、驚きが走る。こちらをうかがう方俊は、してやったりという笑みを浮かべた。


「最後の最後まで、親父がおれに譲らなかった、専属の料理人の仕事だよ。良い腕だろう」


 おれはうなずくことしかできない。次のひと口を追いかけてしまう。


「これはこれは、とんでもない……」


 見た目はごく普通のものだが、とにかく味が良い。


「大体、一箇所ぶんしか作らないものだから、ここで食べようと思ったら、いえのぶんがなくなる。ここに、と言ったら、家内がね、初めはあからさまに嫌な顔をした。しかし、良と一緒にくつろぎたいから、料理人のかれを今日はこっちに、と言ったら、にっこり笑ってね。子どもたちと外食に出かけると答えた。あいつ、良には、いいんだよ」


 寺での、淋しげな表情が蘇る。たしかに方俊の妻は、おれをぞんざいに扱ったことがない。だが、誰に対してもそうしているのではないだろうか。


「あいつはなかなか厳しくてね。来客があったとするだろう、相手によっては、勝手にケータリングを頼んで、引きこもったりするようなところがあるから」


 確かめようもないことだった。おれは少し機嫌よく見える角度を取り繕って、黒ビールを、なめる程度に飲んだ。


「このスタジオには時々人を呼ぶんだけれどね。ご覧のとおり、いささか殺風景なんだ」


「そのほうが、カメラに集中できるでしょう」


「いろいろ運び込んだりするから、かえってね」


 この建物は、かれのカメラマンとしての拠点のようなものだった。方俊は、ある時はプロとして、人物をよく撮る。事実、おれの結婚式の前撮りだけは、かれに依頼した。披露宴では、客として招いたので、そうはしなかったが、ずいぶんと悔しがっていた。


「プールの家のあいつも、あれから良のことばかり話すんだ。甘いマスクのいい男だって。さすがに目移りされたらまずいなと思って、今日はここに呼んだんだ」


 言い切って、方俊は軽く笑った。おれも苦笑いするだけで、答えようがない。グラスを傾ける。


「ときに。ちょっと小耳にはさんだ。独身に戻るって?」


 左手の薬指にはもう、何もない。


「ああ……眞波のやつ、もったいないことを」


 方俊は、ぐいとグラスを空け、次の一杯を注いだ。そして、そのまま、超音波でも当てているのか、サーバーのところに置いている。


「ご存知でしたか。早いですね。あえて向こうが広めているふしもあるでしょうけれど」


 ビールは苦い。奥底に眠る滋味を探して、幾度も飲みくだしてみる。なかなか見当たらない。


「やはり、かれのことだろう?」


 おれはグラスを置き、方俊にまっすぐ焦点をあわせた。


「まさか。知らなかった? 知らずに、結婚したのか」


 新たな一杯をぐいと呷り、方俊は渋い顔で、大きく息をついた。


「昔から、山中の息子と付き合っていた。ああしたことがあったから、学費やらも、五百旗頭の親父さんから相当に支援してもらっていたようだ。さすがに、親のことがあるから、結婚するなら、婿養子になるだろうと思っていた。そういう背景を知っていたから、おれは、眞波との縁談は断ったんだ」


 料理と並行してビールを空ける。味の素晴らしさが救いだ。器にしても、自己主張させないものを選んでいるあたり、独特のこだわりがあるとみえる。何にせよ、残り香が良い。深刻な話をしているというのに、次のひと皿に手が伸びて止まらない。おれは淡々と食事に集中する人になる。そして、この奇妙な自分自身の様子に、既視感を覚えていた。


「誤解のないように言っておく。たしかに眞波はここにも来たことがある。写真のモデルとしてね。ただそれだけだ。社交界でも眞波は評判がいまひとつだった。だからおれは、良がよくあいつを迎えたものだと驚いた」


 おれは一旦カトラリーを中断のかたちに置き、口を開いた。


「眞波の祖父……稔さんから、波留の後見を頼まれて間もなくでした。わたしとふたりで力を合わせて、と」


 前のめりになって、顎のあたりに方俊は手をやる。


「そういうことか。おいしい話だものな。うまくすれば、五百旗頭のトップを好きにできる。そう計算したわけか。でたらめなやつだ。良はそういう男ではない、とわからなかったのだな」


 窓は大きくとってある。庭の芝生には、建物自体の影しかみとめられない。夜がそこにあるだけだ。


「ハネムーンに行っているはずのあいつを、空港で見つけた。捕まえて問い詰めたかったが、追いつけなかった」


 目を閉じて軽く笑う。


 眞波は、出発直前に体調不良を訴えた。取りやめとなれば余計な詮索がつきまとう。結果、仕方なく、一人旅をする羽目になった。今まで誰にも言わなかった話だ。


 空港……おそらくそのとき、眞波のそばに三好がいたのだろう。方俊はそこをあえて黙っているのだ。

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