逆回りの時計・4
人工的な明かりがなければ、昼といえども部屋の中は薄暗い。さまざまなものに影という彩りをつけ足して飾る。
出入口から少し離れたソファーに座るおれにも。
相手からしてみれば逆光。淡いカーテンが輪郭だけをひときわ鮮やかにして、脅威を描き出してくれるだろう。
うつむき加減で手を組んで、上着も脱がずに、暗がりにたたずむなら、きっとおれは侵入者の役回り。
開いたドアから、しどけない肢体をくるむ、羽織っただけのバスローブ。紐もだらりと、素肌はさらされている。
はっ、と声にならない悲鳴をあげ、後退るかたちの眞波を受け止める、背後の男。同じバスローブが、仄暗い場所で踊る。
おれは立ち上がらない。首だけをしっかりそちらへ向けて、眼差しで釘付けにする。露わになった真実をみとめるために。
外から響く金属音は、転がる缶の軽さ。続いて、数人のざわめき。雨のおとずれる前に引き上げる、用心深い子供たち。時間が経つのを忘れられなくなった冷静さが、通り過ぎていく。
眞波は、はだけたあたりを必死に押さえ、紐で結び、前を閉じてしまってから、なによ、と言った。
「石倉良だよ。きみの夫だよ」
あえて、大きな声で答える。
ソファーの、革に染み込んだ冷たさ。暖房が切られていたのは、何時間に及ぶのか。リモコンで電源を入れると、エアコンが動き始めた。
おれは賭けに出た。
「ドアの向こうのきみ。このまま帰ってもいいんだぜ。ただ、そのくらいの男と思われるだけだから。逃げてしまうなら、忘れてやる。どうせ遊びなんだろう」
保身のために一人立ち去れば、もう元のふたりには戻れない。眞波は、頭でわかっていたとしても、生涯これを忘れないだろう。無理に別れさせるより、気持ちを冷めさせて、自然にさようならと言わせるほうが、ずっと利口だ。
まもなく、慌てふためいた足音が響いて、ドアがつまらない途を閉ざしてくれるだろう。
笑みを押し殺して、唇がゆがむ。
おれはここでようやく立ち上がり、眞波のいる、すぐそばのテーブルにつこうとした。
その時だった。
バスローブのままの男が入ってきたのである。
目を見開き、そして閉じた。逃げ場のないため息に追い詰められたのは、つまるところ、おれのほうだった。
はたから見れば、さぞや、奇妙な表情を浮かべていたことだろう。おかしさもこみあげ、落胆もしながら、見当違いの読みがここに帰結するのかと、自嘲するよりほかない。
負けた。おれは完全に負けてしまった。
「ふふふ。してやられた。まったく読めなかった。考えもしなかった……」
三好慶彦は眞波をうながし、並んで席に着いた。神妙な顔つきは、自分の上司を見るときのものではない。
そのまま、向かい合って座ったのは、おれ自身、力の抜けた体のやり場がわからなかったせいだ。
「逃げることだって、できたのに……」
つい言葉が漏れる。
ふたりを前にしながら、もうこれ以上、なにかをする気にもなれなかった。
「勝手にしろよ。まったくおれが馬鹿みたいじゃないか」
頭を抱えて下を向く。テーブルに映る自分の影に話すようなかたちになる。
「慶彦さんは、海運は辞めさせます。急病ということで、始末をつけてください」
眞波はひと息に、震えた声で伝えてくる。
「いつからなんだよ。正直に言えよ。どうにもならないってわかってるんだから、そのくらい、はっきりしろ!」
三好の目に、外からの光がちょうど入った。そこには、この家で、主人然として振舞った場所が映り込んでいる。通いの家政婦もすっかりそうだと思い込む、そうした睦まじさが、このふたりにはあったのだ。
「見逃すつもりでいた。なにもなかったことにできたものを」
「そうはいきません。いつかこうしたときがきたら、逃げないと決めていたんです」
三好はきっぱりと言い切った。
はたと上げたおれの顔には、驚きの色が強かったはずだ。
「わたしは、石倉汽船を騙して乗っ取った、悪党の息子です」
眞波はぐっと目を閉じる。
「ご存知ではなかったでしょう」
「ごく最近、知ったよ」
ため息と一緒に答えた。
「五百旗頭のお父さんの支援もあって、彼女に相応しい男になるべく、やってきた。親のしたことなど気にするな、と言ってくださって」
眞波の父、欣二は、最後まで結婚にいい顔をしなかった。どことなく冷たかったのも、いまになってよくわかる。
「ところが、突然、横槍が入った。わたしではどうしようもなかった。口惜しかった」
おれの記憶のなかには、もう、山中の連れてきていた息子の姿は残っていなかった。
「すると相手は、あの石倉汽船の長男だという。ひと目見て、すぐに思い出した。けれども、あなたは、はじめまして、とにこやかに言った。あの時はたまらなかった。せめて憎々しげに、恨みごとなどぶつけられたほうが、まだましだった」
三好は、慣れた手つきで戸棚からグラスを出し、自分のぶんだけウォーターサーバーから注ぐと、一気に飲み干した。
なにもかもが、かれの掌中にあるこの家は、加瀬と過ごしたところによく似ていた。
曇り空をぬけて届いた、傾いた陽が、室内を斑らに黄色く染める。
「話してみると決して悪い人じゃない。悪い人ならどんなによかったか。むしろ、経営なんかしないほうがいい、さみしいお人よしだった。こうした人を、地獄に突き落とすような真似をした……わたしの父親は……わたしにとっては、悪い父親ではなかった……」
ひとりごちるような、絞り出す声だった。芝居ではない。
おれは手のひらを見せた。
「恨んではいない。おれは山中さんを恨んではいない。あんな馬鹿みたいな家、なくなればいいと思っていた。その願いを代わりに叶えてくれたようなものさ」
目を閉じる。
「誓っておれとは何もない。彼女はきみ一筋さ。もういい。昔のことは忘れよう。きみは三好くんであって、山中くんではない。ここらで、こんなくだらない因縁はおしまいにしよう。……さようなら眞波。幸せになったらいい。あとのことは、きちんと、家族会議をした上でけじめをつけよう。おれはもう帰る」
あっさりしたものだった。加瀬老人の家を最後に出た時よりも、もっと。
おれのいない家の周りにひしめく幸福たち。通り掛かったひとりが、こちらを見ている。ここを買うと決めたときの、不動産の男だ。笑顔で会釈してくる。おれもそれに応えて、軽く頭を下げる。
それから車で出て行った。
さも、野暮用でそこまで出かける人のように。
すぐにでも、戻ってくるかのように。




