逆回りの時計・2
回転する。車は走る。おれはハンドルを握りしめる。いつもは通らないルート。馴染みのない、見知らぬというほどではないが、縁のない地名が窓の外に流れていく。
長いまどろみからじわりと戻ってくるとき、滅多に鳴らぬスマートフォンから、通知が届いた。登録だけはしていても、出番のないものが大半だが、たまにこうしたことがある。
事前に通話の可否を尋ねそうな類なのに、前触れもなく着信があり続けている。おれは電話に出た。
「ご無沙汰しております。東です。いま、よろしいですか」
東翔太郎の声は、ひどく焦っていた。
「どうぞ」
「時間がないので、端的に申し上げます。先生のお屋敷の祠を、取り壊すそうです」
おれは息をのんだ。
「なんですと。そこに、家内は、同席していますか?」
「いいえ」
目をかたく閉じる。額のあたりに手がのびる。頭を抱える。
「詳しいことは後日……たった今、先生からお聞きしたばかりです。失礼します」
どこかに隠れて、取り急ぎおれへ知らせてくれたのだ。
もたせかけた体は、弾むように伸びた。
パネルは、これから工事に取り掛かるためのものだったのだ。伐採は下準備に過ぎない。
施工業者もはっきりしない。おそらくこれは、長一郎自身が行うのではないか。かれは、ボランティア活動ばかりは熱心で、他国においては自ら重機を動かし、作業をする。このくらいはお手のものだ。
急いで祠に戻り、中のものを取り出そうと試みた。しかし、どうしても、祀ってあるものが、奥にはまって出てこない。何かが、大きな箱に入っている、とだけはわかった。また、物理的に動かせない仕掛けもしてあるようだ。
おれは賭けた。本来ならば、封をしていくものを、あえて開けたままにして、五百旗頭屋敷を後にしたのである。
工事用のパネルの言い訳は、いくらでも取り繕える。あのまま長一郎を待っても、今日には戻るまい。かといって、問い詰めに行けば、誰が情報を流したか、と疑いを持たれる。
眞波が居合わせたなら、他にも手の打ちようがあったかもしれない。
残る手立ては、眞波と一緒に欣二のところへ行き、談判するというやり方しかない。そうして、欣二の口から、工事の取りやめか、どこかへ移すという提案をしてもらうことだ。
すべてが間に合わなかったときに備えて、祠の中の「何か」が抜け出る道だけは開けてきた。
本来ならば、閉ざしておかなくてはならぬもの……それを解き放つ恐ろしさはあった。だが、願いのひとつくらいは、残しておいてもいいだろう。
天候は晴れから曇りへ。淡い灰の雲から落ちる光が、咲くはずのない竹の花を、視界の暗がりに描く。
この時間、眞波が他の親戚たちと一緒ではない、となれば、近くのゴルフ場へ行っているはずだ。
帰りを待って、そのまま、欣二の邸へ走るのが最も早い。
落としどころは、祠の移築でいこう。
そうすれば、五百旗頭屋敷へ出入りする必要もなくなる。財産の横領を見張る意味でも、あえて往き来をしていたが、こうまで実力行使に出られては……。
まずは祠を守る、それが先決だ。
波留には、事後報告で、やむを得まい。
移り変わっていく窓の外の景色と競うように、考えを巡らせる。
波留の後見人という立場を失い、また、森行夫という大きなうしろ盾がなくなれば、ただちにこうしたことになるのか。
洋館に出入りして、猛に諂い、加瀬の風下にまわり込んでまで媚を売っていたのは、妬みからくる憎悪のなせる業だったのだ。
そこから石倉が弱り切ってしまうのを待って、おれを屈服させようとしてきた。
なんたる根気強さ。長いスパンでじっくり待ち構えるあたりが、山中や橋田との、器の違いであろう。
動機がどうあれ、おれには決してないものを、長一郎は持っている。
負かされたかたちになりながら、悔しさはない。このまま退いても悪くはなさそうだ。
けれども、祠に関しては別である。
おそらく頼子が建立したであろう、例の島の祠。壊されてから、どうなった?
……おれを動かすのは、つまらぬ義理などではない。
竹の花をみとめてなお、自分の道をとおして、尊く敗れ去った男。そのうしろ姿が、間近に見えてきた。




