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回折:遠い潮騒・1

 木々のまにまに、走り行く影が落ちる。視点が過去の方角へ翻ると、山道を進む一台の黒塗りの姿がある。


 

 樹木の内側の導管にも憂鬱さが流れているかのような重々しさがおれを取り囲む。そうなれば、太陽は天然の要害によって遮られ、文字盤の上にしか、時を確かめる術がなくなる。


 対向車が全く見当たらないのは、早々と私有地に入ったことを意味していた。迷いようのない一本道は、訪う人の確信を疑念にすり替えてしまいかねない。知っている者にだけ開かれた、目的地の存在。それは、唐突に、長い塀と、入口の門構えとして現れる。


 おかしな造りにはなっていない、昔ながらの門を抜けると、少し離れたところに、宏壮な古い屋敷があった。


 よく手入れされた竹林は、寒さの少し残るなかで、遠い潮騒の歌を真似る。時の行き交った轍が、足元のそこかしこに見え隠れ。


 一人で行くように指定されたこの屋敷。人の気配もなく、ひっそりとしているのはなぜか、と訝る。

 寡黙な使用人が案内したのは、大広間ではなかった。奇妙な渡り廊下からして、母屋からの死角に位置しているようだ。


 そもそも、件の祠のために確保されていた場所であろう。その一部に、新しく建てているのだ。


 快適さを言い訳に、押し込められていく過去からの流れ。中庭の池はほとんど潰されていて、そこを挟んで向こう側にある沓脱石くつぬぎいしは、苔むして鮮やか。


 開いた襖のさきに、新しい畳の匂い。そこには年老いた夫婦がいた。おれの知る人々で、長一郎と欣二の両親である。かれの名は五百旗頭いおきべ(みのる)といい、その妻は、おれの祖父の妹にあたる。


 挨拶を交わしていると、隣の襖からやってきた者があった。それはまだ小さい子どもだった。


「はじめまして。五百旗頭いおきべ波留(はる)でございます」


 かわいらしさより、驚きがまさった。


「これは、ご丁寧に……いたみいります。石倉良でございます」


 大人につくすのと同じ礼儀でもって、おれはそれに応えた。互いに顔を上げると、そこには未来と過去があった。


 畳の目はまっすぐにふたり共に向かい合って、視線はその上のあたりでぶつかっている。


「こうしてみると、やはり、血のつながりというものの存在が明らかですな。離れたな、という頃に、リフレインがきいてくる」


 稔は、言葉を自分のうちに留めなかった。中庭にこぼれた昼の光が、稔の妻の横顔に跳ね返る。波留はその人の横にじっと座っている。もの静かなさまが、記憶の中のおれ自身の姿とほとんど同じだった。


 そのとき、ふと、不思議そうにおれを見る目が気になった。


「どうかなさいましたか」


 おれの瞳をのぞきこんでいる。逸らすことは許されない。


「おにいさまは、イシクラなのに、どうしてお外にいるのですか。いつもお部屋にいなくていいのですか」


 稔の顔色が変わった。夫人も驚きの表情で波留を見る。


 雪見障子から入る光が、加瀬史の瞳のものと同じ彩りを放っていた。おれはたしかに、それを、自らの網膜に、眩しいながらも受け止める。


「お父さまもお母さまも、波留はイシクラだから、人に会ってはいけないと」


 加瀬は、どこかよそよそしく、それでいて、くだけすぎたもの言いをしていた。それを今さら思い出すのはなぜなのだ。


 あたりは静かすぎる。目まぐるしく入れ替わる天上の晴曇が作り出す影が、時のありかをあやふやにする。異様にまぶしい、あるはずのない幻が、乱反射のなかに見え隠れする。


「イシクラ、とは、なんなのでしょう?」


「よくわかりません。教えてもらえません」


 おれは稔の顔を見た。ひどく険しい表情で、視線を落としている。


「これから大切なお話があるそうですから、波留ちゃん、お隣の部屋で待ちましょう」


 稔の妻は、波留を連れて部屋を後にした。


「今日の御用は、なんとなく、わかる気もいたしましたが……」


 閉められた襖を見ながら、湯呑みに手を伸ばすと、ぬるい温度がじわりと伝わった。冷めかけたような、それでいて濃い水色。この時ばかりは、器の中を覗き込まなかった。


「あの子の扱いのひどさを見かねて、わたしは生前贈与をしたのです。あの子自体を大切にしなくとも、少なくとも、立場だけは守ってくれるだろうと」


 長一郎と妻は不在だとわかっていた。財団の活動として、国外に当分出たままになる、と聞かされていたのだ。


「ところが、親権を良いことに、わたしにすら断りなく、財産の一部を勝手に流用したのです。とても重要な、意味のある、不動産を売り飛ばしてしまい……。看過できる事柄ではありませんでした。ただ、最終的には、行夫さんの協力で、買い戻すことができました。それでどうにかことなきを得たのです」


 今日、おれがここへ来る手はずをつけたのは、森行夫その人であった。手元の鞄には、持っていくように言われたものが、全て入っている。中身を用いるか、話を断るか、それはおれ次第だという。相談は受け付けない、その場で、自由意志で決めてくるように、といつになく厳しい様子で告げてきた……。


「あなたは本家の石倉家の人で、長一郎の頭が上がらなかった、猛さんの、忘れ形見です」


 稔は、封筒をおれの前に置いた。


 言葉は出てこない。おれは今、何も言うべきではない。驚きのせいでもあるし、稔の声の重々しさもにしたって、理由のひとつだ。


「特別な養子縁組をします。長一郎と嫁からは、波留の親としての権利を取り上げることにします」


 部屋の片隅に活けられた花。枝を自然の形から遠ざけるように折り曲げ、傷を入れて、望みの姿をとらせる。むごたらしい美が、芸術のなりでそこにあった。


「わたしたちも、もう長くはないとわかっています。あの子が成人するまでは、難しいでしょう。そこで、あなたにお願いがあります。あの子の後見人になっていただけませんか」


「わかりました」


 ためらいはなかった。即座に答えた自分の声が、まるで、加瀬の口から発せられたかのように、耳に響いた。あの日かれが挿していたチーフの色も、ネクタイの柄も、はっきりと目に浮かぶ。ふと流れてくる草の匂いが、かれの香水の航跡と重なる。


 畳に落ちる影ばかりが、時を越えて、いつかの男のそれと同じ形をとる。


 あの日、知らんふりを決め込んだところで何の咎めもなかったはずだ。それなのに、なぜ、あの洋館に足を運び、ひとりきりでいた子どもを連れ出したのか。


 ……尋ねるまでもない。


 おれは、目の前の封筒を開け、しかるべきところに署名捺印を行った。


「まもなく弁護士がやってきます。間違いがないか確かめ終わるまで、いてくださらないか」


「はい」


 ありがとう、という、稔の声は震えていた。


「祠の封の解きかた、結びかたは、長一郎に教えていません。欣二にもです。できれば、あなたから波留に」


「わかりました。きっと、わたしが、かならず」


 小刻みに頷く稔の瞳はかたく閉じられていた。こぼれそうな何かをせき止めるのに、精一杯らしかった。

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