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回折:酷暑の夢・2

 空の上部から濃い青が滲んでくる頃、車寄に近づく三台があった。一台は父、二台目は母と弟。三台目はおれもよく知る客と、その息子が乗っていたものだ。


 それらをみとめると、まるでおれは望んでいたかのように、かれらを歓待しなくてはならなかった。大広間へ行き、使用人を気遣うふりをしながら、席のあたりを整え、嬉しくもないのに笑いかけるのだ。


 それを父のたけしは、へらへらして柔弱だ、と人前で不快感を示してみせる。もしその時仏頂面なら、対人能力がないとなじられる。いずれにせよ同じことなのだ。おれを助けるものはない。一緒になってそのつるし上げに加わらなければ、次の標的は自分なのだから。


 母と、弟のつよしには特にそのきらいがあった。同調して小馬鹿にするのを半ば楽しみ、憂さ晴らしにしている部分だって、なかったとはいえない。そうしたことがらは、おれに、くだらぬものを相手にしない気位の高さを与えた。


 猛はしばしば友人を招いた。その誰もが、かれより立場が下の者ばかりで、取り入ろうとする心の持ち主しかいない。


 現に、この場にいる山中(やまなか)という男は、猛の身に付けているものより、確実に二つほどランクの落ちる類をまとっている。おそらく猛が用いるものの一切を把握しているに違いない。


 山中には息子しかいなかった。おれより少しばかり年長だった。いつも連れてこられていた。もしかれに娘があれば、実にくだらぬ手駒として扱われていただろう。


「やはり、経営する身にならないとわからないよ。何も。人に仕えて、よしとしているようではね。自分が動かす側にならなくては」


 山中は上目遣いで、いかにも敬意を払っているかのように、話を聞いている。あれこれと猛は感想を述べるふりをして、我が身の自慢をする。それに聞き入っている(てい)もなかなかだ。


 おれより上座で、弟の剛は食事を散らかしている。テーブルマナーはひどく、母の世話なくしてはあたりはソースだらけになることだろう。時折口の端などを拭いてもらったりしていて、年齢はいくつかと疑いたくなる。


 山中の息子は剛とばかり関わり合って、おれとは目も合わせない。この場で全く存在感をなくして、おれは皿の上のソースを残さぬようつとめる。しかし手元のパンが滑って、軽くカトラリーが音を立てた。それをひどく不快な表情で、猛が見咎める。


「人の上に立とうと思ったら、社交性というものがなくてはね。わたしは後継者に剛を、と考えている」


 山中は黙って次の言葉を待っている。


「まったく、この、良ときたら。明るさというものがない。これでは誰もついてこない」


 おれは淡々と構えて、水でも飲んでやり過ごそうとした。


「そこは、すみません、とも言わなきゃならんところだ」


 それでもおれは口を開かない。


 つまるところ猛は、難癖をつけてでも、他人を自分より下におくことで、自尊心を満たそうとする人物なのであった。


「それにしましても、剛くんは実に陽気で、息子などは、やはり石倉汽船の御曹司、人の明るさが違う、などとわたくしに申しまして」


 母は、にこりとして、山中親子にわが意を得たことを知らせるのだった。


「のびのびとして嫌味がない。屈託がない、と、息子は言いたいんでしょう」


 猛の手からグラスが離れ、テーブルに置くとき、その左の薬指の環がかちりと音をたてた。曲面にいくつもの赤い条ができて、家系図のごとく、各々の顔が歪んで映り込み、重なる。


 代々続き、昔には爵位もあった家柄、ということを誰より誇りとしている猛にとって、山中の言葉は実に心地よいものだった。立ち居振る舞いは殊更に優雅さを意識したものになり、独特の尊大さは、自身の器の小ささをあらわす証拠として成立してしまう。


「奥様も慈善団体で大変なご活躍で。困っている人のために、なかなかそうまでできません。先日機関誌を拝読いたしました」


 母は機嫌よくうなずいて応える。その本に載せる写真の撮影時に、おれは同席しなかった。塾があるので都合がつかない、という名目は望ましいことであった。


 前回顔を出した時だ。人前では、いっけん、母親はおれを剛と平等に扱ってみせる。


「あれが欲しい、これが欲しいと言って、わたくしどもを困らせたことはございません」


 別室から漏れ聞こえた話は、実にもっともらしいものだった。明かり採りの窓から入る光は計算され尽くして、ちらつく半透明のカーテンの白さがわざとらしい。


「わが子に不満を持たせるような環境の者が、よそ様の大変な状況を改善する活動なんて、本末転倒も良いところではありませんか。そういうことはないように、まず、自分がつとめませんと」


 確かに、おれが身に付けている服は品質にしても優れたものである。どこに行っても恥ずかしくはない。ただ、おれには選ぶ権利はなかった。外商が持ってきたものを、そのまま用いるだけだ。一度希望を伝えたのだが、お父様がだめとおっしゃるから、と、取り合ってもらえなかった。


 他に望みがあったとしても、その通りではなく、必ず全く違った品物を渡してくる。


 おれはもう願いを伝えなくなった。期待するのをやめたのだ。


 それをもって、満足しているから、と言い切る母親の横顔には、嘘つきの不自然さはなかった。はじめから、きくつもりもなかった、ただそれだけなのだ。


 それに対して剛は、いつも不服ばかりだった。ところが、母親は、次から次に剛の希望は叶えてやろうとする。いかに無理をしてでもだ。万事そうしたことであるから、剛はひどくわがままな性格になっていった。


「だめことはだめ、ときちんとしないと、いずれ、よくないことになります。なぜ叱らないのですか」


 年端もゆかぬおれにも、すぐにわかる話であった。


「だって、剛がかわいそうでしょう」


 おれはまたも、物を言うのをやめた。


 ただ、おれにはひとつだけ望みがあった。人は必ず死ぬということである。


 余程のハプニングでもない限り、順番からして、両親のほうが先にこの世を去るだろう。かれらの生命と権力とが老いによって弱められたとき、おれは(さか)んな時期に差し掛かっているはずなのだ。


 運の良いことに、おれは相当遅くにできた子どもである。剛が後継者ならば尚良い。仕事をひとの何倍もこなして、生命を磨り減らすなど、ごめんだ。


 いつか両親のもとを離れ、まったく関わりのない身となれば、逃げ切れる。そしてそのとき、自分の人生を生きることができるだろう。


 何かをつかもうとするのではなく、捨て去るのが、ただのスタートラインにしか過ぎない。この差は決して埋まらない。


 あまりにむなしい夢だった。

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