乾いた庭・2
無機質の山水に陽が時の軌跡を描いて午後を彩る頃。世は春も盛り。新芽は山を濃淡とりどりに斑ら染め。
青のカンヴァスにそれらをみとめたのは、二人して山門を後にしてからだった。
墨染めのものを上着ばかり変えて、山道を行くなら、婚前、数えるばかり出かけたドライブデートの日とかさなる。
運転中、ぬすみ見る眞波の横顔は美しい。ただ、この自然とは馴染まないようにも思いながら、ハンドルを握り続ける。
「こんなとき、運転手が要るでしょうに」
誰もいない道の分岐。ひなびた景色にかかる、午後の穏やかな陽光を背に走る。
「酒を断る口実。そしてもう一つ。きみとふたりきり。一緒になる前の気分」
「またそんなことばかり言って」
軽く笑う眞波。沿道の桜がわずかに花びらを落とす。風はない。季節を愛でるために、いたるところに人がいるはずのような日。
進むうち、うら寂しい寒村。朽ちかけの廃屋。野ざらしの看板は腐食して、赤錆に、歳月ばかりを読ませにかかる。おれの笑顔は無理に作り出したもの。陽射しが影を彩る。
「わたしは不出来の婿だった。お義父さまからすれば仕方のないことだろうよ。おっしゃるとおり、船とホテルは素敵なカップルさ。レストランだってね」
「畑違いのまま、単純に経営したってうまくいくわけないのよ。きちんとしたホテルと提携すれば……」
「そうだろうね。客船ならば」
眞波は外を眺めている。
「なにせ、貨物だからな。おまけに不動産が収入の柱だという会社だ。新しい事業に挑まないことをなじられたら、ぐうの音も出ない。石倉海運という、会社なりの規模での経営判断だと、わかっていただけなかった」
高速道路までの案内は、黙りとおすしかない一本道。視界のはずれに、ひと言だけの立て看板。迷いようもないのに書くのは、疑いを持たせないための、通りすがりのやさしさ。
「もっと突っ込んでいえば、森家との訣別をお望みだったのかもしれない。ただ、森汽船とセットで、互いにうまみがあるという構造では、どうしようもあるものか」
工事を終わらせて間もない様子の擁壁。梅雨に備えて設定された工期。斜面にできていた水の通り道も全て計算のもとになくされて、新しいアンカーが陽に照り映える。視覚的に不安な角度で成立しているのは、設計の苦心によるもの……。
「お義父さまは森一族をお嫌いなのだ。わたしにはわかった」
カーブで眞波を横目に見る。向かい合えばかたくなになる人も、隣で、他所を見ながらという状況ならば、取り繕いにも隙がうまれる。おれはそれを待っている。
「年齢からしたって、方俊さんのほうが近いだろう。家格も財力も申し分ない。新事業に乗り出そうというつもりなら、意欲もある人だから、ぴったりだと思うが。あの様子をみていて、方俊さんから断ったとは思えないな。むかし、きみたちは、つきあっていたのではないかね?」
片側交互通行の区間のために、誰もいない道で止まる。残り時間の表示を眺める。横を向いて眞波と視線がぶつかる木陰。まなざしは揺れて少し怯えの色。
「愛してもいないのに、わたしを選んで、仮面夫婦になったのはなぜかね」
点滅する数字。踏み込むアクセル。道なりに流れる孤独の時間。この穏やかな春のただなか、おれは生き急ぐ人になる。
いや、もとからそうしたものだった。今更そんなことに気づいたのは、心の縛りがとれたせいだ。おれの横顔が、眞波のそれに重なって反対側のガラスに映りこむ。いつかの頼子の面差し。
この不謹慎なやすらぎに溺れて漏らす本音。聞けずじまいのまま、終わらせることのできない問い。
信号のない道。通りかかる一台もない路側帯に止めて、おれは、答えが出るまで動かない心づもりをみせた。
「森会長は、行夫さんは、亡くなってしまった。わたしには、もう、何のうしろ盾もない。いまに五百旗頭の家は、わたしを切り離すだろう。わたしたちをこういう間柄にした、しがらみはなくなったも同然だ。きみもわたしも、自分の人生を行こう。きみはどうしたいか、聞かせて」
眞波は突如、シートベルトを外し、歩道へ出た。草むらを向いてしゃがみ込んでいる。おれは視線をよそに移した。なかなかの山道である。車酔いだろう。
しばらくして眞波は戻ってきた。顔色が悪い。ペットボトルの水を飲み、目を閉じて背もたれに寄りかかる。
「ちょっと、車酔いかしら」
「この坂を過ぎれば高速だ。カーブはもうない。大丈夫か」
「食事のすぐあとだったせいかもね。往路は、なんということもなかったのに」
なるべく揺れのないよう慎重に運転しながら、青くなっている眞波は決して詐ったわけではない、と自分に言い聞かせる。
「きみの実家へ送るよ。それでいいね」
「ええ」
カーナビの目的地をひとまず入れ替えて、最も近い高速入り口まで五分。もうこれ以上問い詰めるつもりもない。
木立は身じろぎすらせず、天気の変わり目も遠い。穏やかなはずの春の午後を、乾いた心で通り抜ける。




