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乾いた庭・1

 野山はなべて春霞。連なる丘のあちこちに、淡く桜色。時折吹く風も、とげとげしい冬の冷たさを含んでいない。


 山の中腹にある立派な門をくぐると、あらかじめ言ってあったところへ車を止め、そばにいる誰かに尋ねて目指す場所へ向かう。


 古い木の床。由緒正しい大伽藍がおれたちを飲み込んでいる。常緑の木々は息をひそめ、そこはかとなく漂う、死生のはざまの香。それが芳しくさえ感じられて、人知れずおびえながら踏み越える敷居。


 黒ずくめの屈強な人々は、およそここにふさわしくなく、脇に控えても悪目立ちしていた。


 先導の、寺の職員が、おみえになりました、と部屋の内側へ声をかけ、襖を開けた。


 そこの上座には、(もり)方俊(まさとし)が構えていた。


「よくきてくれた。良も、眞波(まなみ)も」


 顎を引いて上目遣い、のぞき込むように眞波を見つめて、ねっとりとした話しかた。


 一歩退がり、怯んだ様子で、眞波は視線をおれに投げた。こうしたときだけ、妻の肩書をうまく使っている。


「親父と、最後の別れをしてやってくれ」


 開けられた奥の襖の向こうには、祭壇。棺には、死化粧の施された森行夫が横たわっていた。


 隠せなかった、苦悶の表情。なにが、かれをこうさせたのか……。


 到底ここに長くは居られない、と思った矢先だった。


「こちらへどうぞ、おかけになって」


 不意にかけられた声。目をやった先には、方俊の妻がいた。


 憔悴した様子。とかく影の薄い、淋しげな女だった。事実上の当主夫人ではあるが、せいぜいこうして、案内をするのがやっと、といった内気さである。


 冷たく保たれた部屋は、眠りについた人のためであるから、居心地が悪いのは当然といえた。


 そこを後にして、襖のさきに戻る。


 向き合って座れば、いやらしいまでの、方俊の自信に満ちた表情があった。


「お前どうして、海運を辞めた?」


 眞波は、弾かれるように顔を上げた。


 ちょうど、黒ずくめの男が、皆の前に茶など出したところだった。


「いやしくも、良の女房という立場だろう。わけもなく、実家べったりなんて、親離れできないことをするなよ。石倉の家を盛り立てろよ」


 一言も返せない眞波の姿を初めて見た。方俊には弱いらしい。


「今言うべきことじゃない、なんて、おれもわかってるさ。でもな、誰かがしっかり言い聞かせなきゃ、お前、やりたい放題だろう。おれは黙っちゃいないぜ。親父のようにはな、眞波」


 おれの知り得ない時間の存在。方俊の手のひらは、内側に何を握るのか。


 すねたような表情の眞波。


 板張りの床の、様々な平行線に落ちる影。重なる、方俊と眞波のそれを、過去のかなたに思い浮かべる。


 隅で小さくなっている、方俊の妻は、手持ち無沙汰に喪服の帯の具合を確かめるばかり。


 何もかもが体裁ばかり取り繕われ、早くも忘れ去られた森行夫の存在。


 生気の横溢する、方俊の、眼光。


 おれはあの日、控室で斜に構えていた頼子の冷ややかさを、心底、身近に感じた。やわらかな女性としての雰囲気を足せばそのままになる自らの姿で、再び、猛のような男を見る。


 遡れば、どこかでこの森家ともつながりがあるのだから、似たようなことがあったとしても不思議ではない。


 おれは、ぬるくなった茶にようやく口をつけた。静かとみえた外から、次々に、砂利の音が響き始めた。ごく、近しいものばかりとはいえ、他家に嫁いだ方俊の妹たちなども、じきにやってくるころだ。


 おれは、方俊の妻の、疲れた横顔をそっと見やった。別宅の女とは似ても似つかぬ、おとなしく上品な造形。このひとは、窮乏した名家の末裔で、帰るところもない。唯一の味方であった義父の森行夫はもう亡く、こうした場で淋しげに控えているしかないのだ。


 人知れず流したであろう涙の源も、とうに涸れてしまったに違いない、あきらめの顔。


 石が作る中庭に水の路はなく、干上がり、掃き清められすぎて、崩れようもない完璧さが、おれの胸を詰まらせた。

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