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ラグーン

 まにまに黄金。散り去ったはずの葉はそこにないはずなのに、ふと、おれの目を奪った、あの日の公孫樹いちょうの姿。


 だがそれも、すぐに幻とわかった。夜にとけた真っ暗な裸木に、つかのま借景のかたちであらわれ出た遠いビルの明かり。それらが、あの輝ける季節に似て、そこにあっただけだった。


 ふとしたとき、胸をくすぐる期待。振り向いてしまう。すぐに失望と変わることがわかっていたとしても。


 見知らぬ誰かのともした明かり。おれには決して手の届かないもの。いつか、それに近い何かを、間近に得ていた。ところがどうだ、またおれはこうして独り、暗い小路を歩くだけ。大通りで車を降りて、隠れるように入っては世の中から逃げ込み、また引きずり出され……。


 足が遠のいていた、バルへの道。そこを歩ませたのには理由がある。誰にも知られず、話さなくてはならない相手があったせいだ。ここは、おれにとっての、密会のためにある場所らしい。


 照明は下から。植え込みが半ば隠す気配。感傷の入り口をそっと押し開ける。今日は、一人の淋しい男でしかいられない。ドアの金属部分に映り込んだ自分の横顔の切れ端が、そっと教えた。


 すぐにカウンター。目があって、向けた手の先はしばらく開けたままの特別席の方向。ついたての向こうの気配。下座にかけた人のうしろ姿。振り向いて、立ち上がろうとするのを止めて、相手もおれも、同じに捨てる職場の顔。


「忙しいなか、ありがとう。雄浦おうらさん。きょうはわたしも、ただの石倉だから、肩書呼びはなしでいきましょう」


 たれた目に、たれた眉。見下しているわけではない。おれはかれの、決して美しいとはいえないところが、なぜか好きだった。この風貌で、誤解されることもあったろう。しかし、ほどよく、ぎらついたところが抜けはじめたいまの様子は、他人とは違う魅力を醸し出している。


 ふたりでビールを乾杯、タパスをつまむ。仕事帰りの上着はかれらしいデザイン。警戒させるべきところはどこにもない。その腕に、誰か知らない女の姿があったとしても、もろともに、にこやかに応対できそうな気もする。


 ……あれは、森汽船で、初めて一緒に、古い船に乗り込んだときのことだ。


 あゆみ板のない、ほんの少しの隙間。それがひどく恐ろしく、一歩を踏み出せなかった。さきに渡っていた内側から、笑顔で手を伸ばしてくれたのは、かれだった。


 あれから、立場こそ違えど、友人だと思い続けてきた。今でもそうであるように、これからも同じだろう。


 どこか疲れ果てた胸のうちに、じわりと酒が染みていき、外の明かりがやわらかに見えた。


「かれのことなんですが」


 以前頼んでいた、秘書室長、三好みよし慶彦(よしひこ)の件である。


「なかなか難しかったんですよ。まるで、自分の足あとを消すような、そんな痕跡ばかり浮かび上がってくるようで」


 手元の鞄も、くつろいだ類のもの。かれは、こうした持ち物からして、おれに気を使わせないようにしてくれているのだとわかった。


「会社の立ち上げ時、役員の大半は、森汽船からでしたね。社員の主だったポジションで、イオホテルグループ系で、現在まで残っているのは二、三人。そのひとりなんです。三好氏は」


 石倉海運は、どうしても、森汽船の影。その傘なくしては立ちゆかぬ性質を持っている。完全子会社として発足した過去はどうすることもできない。


 だがその際、森行夫は、イオホテルグループのトップである、おれの義父、五百旗頭いおきべ欣二(きんじ)にも参画を求めた。うしろ盾はいくつあってもいい。そうした思いからだ。


 ところが、これも、いっときばかりのことだった。森汽船からの、全くの独立でないと見るや否や、一部の人間を残し、欣二は手を引いた。そのダメージで、倒産寸前までいった。おれにとっての、苦い思い出だ。


 ただ、どうしたわけか、その後も数人はこちらにとどまった。理由はわからない。考えたこともない。単に、おれは、そうしたかれらを、ありがたい人々だと思っていたからだ。


「石倉海運の前が、イオホテルグループ本部。なかなかの出世コースだったんですがね。どうしたわけか、こちらへ移されています。当の本人も、戻るつもりもなかったようで」


「なにが、かれを、うちに留めたのか……」


 無表情のまま、対応している姿しか思い出せない。この間転んで怪我をしたときぐらいしか、かれの感情の動きを認めた覚えがない。幸い、すぐに回復したが、以前のように、あまり部屋の往き来をしなくなった。些細な事柄は、部下に任せることが多くなったようだ。それはそれで、悪くないと、おれはひそかに思っている。


「大学も六年ほどかかって卒業しているんです。しかも、およそ、イオグループに入れるような学歴ではなくて。コネも何もなければ、エントリーも難しいようなところなんです。とはいえ、かれは優秀ですから。関係ないといえばそれまでなんですが」


「六年? 院卒でもなくて? 留学でもしていたのですか?」


「地方の国立大に入学して……なぜかしら、教育学部ですね。それから、よそに編入し直しています。ここで、首都圏内に移っていますね」


 おれはグラスに口をつけ、首をかしげる。


「全くもって、意図がわかりませんね」


「高校も、地方……初めに入った大学と同じ県なんです。ところが、中学は、東京の有名私立ですよ。わかりません、理由もなにも」


「ご実家で、なにかあったのかもしれませんね」


 視線を落とした。年齢もあまり変わらぬ、三好の少年時代。かれは、裕福な家庭に身を置いていたのだ。おれがちょうど、加瀬の家で、人間らしい暮らしのなかにいた頃だ。


「親御さんの事情か何かだろうと思いまして。かれと同じ学校を卒業した知り合いがいましたから、尋ねてみたんですね。すると、どうも、不幸があったそうで。そのまま高等部への進学はしなかった、というんです。ただ……」


 ふと顔を上げて、おれが上目遣いになる。


「名字が、三好ではなかったんです」


 雄浦の差し出した封筒を受け取り、中の一枚を取り出す。それは、学校の卒業アルバムのコピーだった。似たような少年たちの顔と名前が並んでいる。


「あっ」


 目と眉のあたりに、自分でも、大きな動きがあるのに気づいた。


「三好と姓が変わったことも、誰にも伝えておらず、住所が不明のままになっていると聞きました。知り合いが、同窓会の人間だからわかったことです」


「山中、慶彦……」


 少年の日の面影は、その時代に置き去りにしてきた、といわんばかりの眼差しで、写真の中からおれを見つめ返してくる。


「そうか、そうだったのか……」


 旧・石倉邸に出入りしていた、あの男と、その息子。


「おそらく、ヤマナカ・ハーバーのひとり息子だろう、と」


「ええ。間違いありません。昔の家に出入りしていたのを、いまごろ思い出しましたよ」


 少しの沈黙ののち、雄浦が口を開いた。


「……どうしますか」


 かれの目は悲しげに沈んでいる。


「どうもしませんよ。かれにはかれの、苦労があったはずです」


 弾かれたように、おれに驚きの表情を向けている。


「世の常です。親同士の因縁をいまに持ち越しても、何にもなりやしない。かれは、有能な秘書室長。……そうでしょう?」


 雄浦はかぶりを振って、少し笑い、おれが置いたコピーを破り捨てた。


 そして、二人してグラスを開ける。


 飲み干したあと、互いの瞳に、さわやかな笑みが映り込んでいた。

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