合流・3
あたりはまだ昼の貌をのこしていた。
暖色を軽く混ぜ込んだ壁は、陽射しの入る部屋の彩りとして仕上げたつもりだろうか。
それなのにおれは、まるで夜のただなか、ひたすらに暗さと逆光のあいだで、影のようになって歩いていた。
特別室。広い廊下を抜けた先は、絨毯の色からして違っていた。もうすでにそこから、部屋としての認識でいいのだろう。不意にドアが開いて、見覚えのある男が、ゆっくりと現れた。
「良くん。よくきてくれた。まずは撮らせてもらうよ。その後ゆっくり話をしていってくれ。終わったらいまの部屋へ来て」
カメラを提げた、方俊であった。
もともと若白髪の性質ではあったが、それは甚だしくなり、頭髪はほぼ真っ白になっている。だがそれは、かれを老け込ませたようには見せなかった。
方俊のノックで向かいの部屋に入ると、そこは、高級ホテルのスイートルームといっても差し支えないほど、豪奢な設えの空間だった。
そして、目に入ったのは撮影用機材と、五つ紋の正装に身を包んだ森行夫の姿。
方俊は隣に座るよう促し、おれはそれに従う。二、三枚程撮って終わりだった。
そして、移動式のテーブルを方俊が寄せた。すでに二人分のティーセットが用意してある。
「失礼」
方俊が出ていくと、おれは森と向かい合う位置に座り直して、ポットからカップに注いだ。
そのとき確かめた森行夫の顔には、旅立ちの気配がつよくにじんで、その予定を変えることはできないと、すぐにわかった。おそらくこうして正装し、座っているのにも、何らかの薬の加勢を要したことだろう。そうまでてしても、かれは、出来うる限り健やかな印象を遺しておきたいのだ、と察した。
「きょうばかりは、会長などと呼んでくれるな。むかしのように、行夫さん、とたのむ」
かれの目は、影になった奥底から、凄まじい光を放っている。相対する人は、すべてを見抜かれるだろう。
「初めて行夫さんとお会いしましたのは、石倉の、むかしの家でしたね」
首を軽く動かしてうなずく仕草の森。
「律さんそっくりだった。そして、あなたのお祖父さまにもね。あなたは、石倉という血そのものだと思ったよ」
そこから、途切れ途切れに思い出を語った。
言葉の端々から、頼子へのあこがれが、あふれこぼれる。
「石倉と縁つづきになる。あの麗質がぼくの家とひとつになる。夢のようだった」
森の眼光に、たじろぐわけにはいかなかった。
「ぼくは、石倉をのんでやろうと思った」
半ば下ろしたブラインド。閉ざされたドア。その空間を守るために、方俊は向かいに控えている。
「ところがどうだね。山中などという小者に、あっさりもっていかれてしまった」
目を逸らすことはできない。
「悔しかった。頼子さんと一緒になって、石倉をのみ、大きくなる夢が、くだらないきっかけで頓挫した。ああまで強大にみえた石倉汽船が、たったあれだけで崩れてしまうとは」
身じろぎもせず、黙って話を聞いている。息をしているのも忘れるほどに、張り詰めた時間。
「頼子さんもあなたもいない。そうなれば知恵者を探すしかない。あのとき残っていたのは、加瀬くんだけだ。そして、やはりあなたは、そこにいた」
指先が震えるのを隠そうとして、手を握り込む。
「ところがまた、山中だ。山中が今度は長一郎くんを焚きつけて、動かした。長一郎くんはすぐに思いついた。あなたを担ぐことを」
そこまで話したところで、森は体をソファにあずけ、大きく息をついた。そして紅茶で喉を潤す。
「いや、山中が思いついて、唆したのかもしれん」
おれもカップに口をつける。熱かった。それでもできる限り飲んだ。喉が渇いて仕方なかったのだ。
「このとき、担いでも問題ないといえたのは、加瀬くんだった。しかし、かれ自身が打って出た」
足先からはもう、力が抜けている。革靴の仕立ての良さのせいではない。ふわりと浮いて、違う節々に血が集まり、脈打つ。
「ぼくは支援を申し出た。かれは受けた」
唇が震える。なぜ加瀬は、あのとき、捨てたはずの政治の途を選ぼうとしたのか。あれほど加瀬老人に反対されて……。
「存命だった長一郎くんの父親に圧力をかけた。約束を反故にさせた」
おれは視線をどこにやっているのか、自分でもわからなかった。
もう思い出せなくなった加瀬老人の顔や、あの辺りに住んでいた、いろいろな人の面影らしきものが、よぎっては消えていく。
「加瀬くんは、あなたを、生涯ここで暮らさせる、金持ちのおもちゃにはさせない、といった」
目を閉じると、熱いものが、とめどなく落ちてきた。
あの日、加瀬老人の家に戻したのも、それから冷たくあたったようにみえたのも、すべて、辻褄が合った。
森の手が、おれの両肩をとらえる。
「加瀬くんは、あなたを捨てなかった。それだけは、間違えてはならん」
ハンカチで涙を拭い、うなずく。
「はい」
そう答えたつもりだが、伝わったかどうかはわからない。
「山中と組んでいたあいつ。名はなんといったかな」
「橋田ですか」
「そうだ。その男が、加瀬くんたちを海に」
顔を上げて、森を見た。
すっと血の気が引き、体が震える。みるみるうちに、目がすわっていくのがわかる。
「考えなくともいい。山中も橋田も、仲良く眠っているよ」
言葉を失った。
「天罰がくだったのだろうよ。自分たちが持っていた、海辺のレストハウスの下で、人柱になった」
おれの脳裡に、ある建物の影が浮かんだ。
「もしやそれは……長く手付かずだった、あの……」
「誰も買わなかった理由がわかったかね。最近、間違って手に入れた者があるがね」
何か言わなくてはいけないような気がしたが、出てこない。
「あの桟橋とレストハウスには、絶対に手を出すな。あれは不吉のものだ。そっくりそのまま受け継いだ、アズマ・マリンレジャー所有のものも、決して購ってはならない。これは遺言だ。何があっても守れ」
「はい」
「う、ふ、ふ……」
途端、森は、笑うような、泣くような、妙な声をあげた。うなだれて、顔を見せないようにしている。
「馬鹿だ。ぼくは本当に馬鹿だ。こんなことだから、石倉をのめなかったのだ」
森は泣いていた。
「頼子さんを愛していた。そのうえで石倉ごとのみこんでしまいたかった。あなたを担げば、もう一度頼子さんに会えると思った。だが、すべて、終わった」
差し込む窓の光は、西の空に太陽が移ったことを示していた。
斜めになった黄みのつよい光と、部屋の色合いが、オレンジの影を描きだすのを見た。
部屋じゅうを満たす、夕刻の陽。
遠い風が揺らめかせる木の葉が、光の海に波模様。
「何もかも捨てて、頼子さんを探しにいけばよかった!」
おれは、このまぼろしの海を知っていた。
そこをるみと歩いた日のことを覚えている。
いつまでもいつまでも、続いていくとしか思えなかった、あの日のことを……。




