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合流・2

「夜分にすまない。方俊です」


 あえて通話はスピーカーにしなかった。よく通る声。それでいて感情は読めない。


「父は持ち直した。ただね、親交のあった人たち、一人ひとりに話をしたいから、時間をあけてくれないかと」


 目を閉じる。奥歯を噛み締める。胸に深々と刺さる何かがある。


「最優先で、必ずご指定の日時にお伺いします」


「ありがとう。父は羽織袴を用意してほしいと言ってきた。時間が決まったら、すぐに連絡する。あなたとは、さしでじっくり話をしたいということだった。その後ぼくも、あなたとゆっくり時間を持ちたい。いいね」


「夜中でも明け方でも、決して遠慮なさらないようお願いします。ご連絡お待ちしています」


 ありがとう、と方俊の声。繰り返された二度目は、震えて絞り出すような細さだった。思えば、このように話すのは初めてかもしれない。


 通話を切っても、おれは目を開けずにいた。体のどこかがしずかに震えているのがわかる。


 暗闇の中に、若い頃の森行夫を呼び出そうと試みる。赤い煉瓦塀。淡く青い空。遠い雲。褪せたトリコロールの背景の中に、方俊とは違った雰囲気の、爽やかな御曹司の姿。


 先々、重責を背負わされるとわかっていながら、投げ続けた笑顔。あれは、来てもいない明日の影など落とすことも許さない、若い輝きそのものだったのだ。


 目を開いたとき、少し風景が歪んだが、まばたきの繰り返しで何もなかったことにできた。


「飲む?」


 眞波に尋ねるのは、単なる礼儀のようなものではなくて、淋しさと親しみからわきあがるもののせいだった。さっきの方俊の言葉だって同じだろう。ひとりきりでいたくても、いられない。


「よしておくわ」


「では、わたしも飲むまい」


 時計はさして遅くもない頃合を指していて、それに気づいた途端、疲れが押し寄せてくる。


「明日、午前のうちから家政婦さんが来るのよ」


 グラスの中の水を飲み干す。


「何時から」


「十時」


「それまでには外に出ている。会社に行かないだけで、東京に戻らなくては、いざというとき、動けないから」


 そう、と漏らす眞波の表情が緩むのを、見逃さなかった。


「家政婦さんとわたしが会ったら、何かあるのかい」


「いえ、そうじゃなくて。お互い顔を知らないから、驚かないように、知らせておいただけ」


 おれは流しに立ち、皿を洗いはじめた。


「置いていて、いいんじゃない」


「このくらい、わたしはいつもやっているからね。癖だよ。きみのも持っておいで」


 背中を向けていても、眞波が動揺しているのはわかる。


 取り繕った理由をおれは知っている。すでに、山本とでくわしていたなどとは、夢にも思うまい。


 生活の跡を洗い流す、手元の清水。おれのいた痕跡をここに残していたくない。


 入れ替わりに、密やかな幸福を築いていた誰かを気遣うように。


 お義理で一緒にならざるを得なかった、その前からの付き合いなのだろうか。もしそうならば、力ずくで眞波を奪わなかったのは、おれの人生における稀な成功のひとつとして数えたっていい。


 ダイニングの壁にかけた、おれのによる小字仮名の和歌。珍しく腕も震えず、それらしく書けた、たった一枚きりの作品。あれはいつ頃仕上げたものか、思い出せない。


 きまり悪く座ったまま動かずにいる眞波のほうへ、洗い物を終えて振り向いた。


「きみには、きみなりの不自由さがあったろう。そこへ踏み込むのは野暮というものさ。けれども、もうきみは、つまらないしがらみのなかで、窮屈に生きることはない。石倉海運から退かせたお義父さまのお考えも、わかるような気もする」


 視線を落とす。


「きみ自身に正直になって、どうしたいか、聞かせてくれないか。すぐに、とはいわない。近々、踏ん切りがついてから」


 眞波の瞳には、いつもの、強気な光はなかった。


「きみの答えがどういったものであったとしても、受けとめる。……いいね」


 うなだれるかたちで、首を下に向けて肯定の意を示す。それは、いままでに見せたことのないありようだ。


「おやすみ」


 そっとリビングから出ていく。


 寒ざむとした空間が、加瀬の新居にいた最後の日と同じように、広がっていた。

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