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合流・1

「あなた、いつもカップの中ばかり見ているのね。いえ、中身じゃないのよ。自分だけ見てる」


 不意につけられた明かりと、黄昏をとうに過ぎた時間のはざまで、おれは振り向く。気怠そうに部屋へ入ってくる眞波は、離れたテーブルのほうへ、席を取る。


「変な時間に、こんな暗いままでいて、どういうつもりだったのよ」


 ウォーターサーバーが音を立てて、眞波の手のグラスに、冷たい水を満たしていく。


「ここはわたしの家だよ。帰ってきていただけさ」


 おれの前の小さなテーブルには、紅茶のセットがひと揃い。温め直したスコーンのかけらが散らばった皿。クロテッドクリームの表面は乾き始めている。


「帰ってみたら、二人分の食事の作り置きもない。誰もいない。仕方がないから、ホテルの料理を配達してもらった。きみと二人で食べようと思ってね。冷蔵庫に入っているから、温めておくれよ」


「なんだか変よ。いつもなら、弱いくせにブランデーなんか飲んでいて、妙な具合に酔ってからんでくるのに。素面のまま。食事の手配まで」


 ひやりとした感覚。ぬるいはずの紅茶の下に潜んだ、不意打ちの冷たさ。混ぜたはずの嘘と真実が分離しかける。


「帰ってきた。それまではよかった。ひとりでいたら電話があった。森会長が倒れた」


 風の歌。どこからともなく聞こえる、子どもの声。塀も壁も生垣も越えて、無神経に入りこむ、他人の幸福。


「きみにも電話をかけたが、繋がらなかったので、ここで待つことにした。割と早く戻ってきたので安心したよ。森会長の長男、方俊まさとしさん、知っているだろう。あの人から連絡があるまでは動きようがない。素面でいるはずさ」


「どういう状況なの」


「よくわからない。そうした理由で、明日は出社しないつもりだ。会社には急用で通す。きみはきみなりの予定があるだろうから、それを変えることはない。ただ、森会長のことは口外しないように頼む」


「父にも?」


「そうだ」


 眞波は料理を冷蔵庫から出し、そのままテーブルに置いた。温めるのも面倒らしい。


 おれもそちらのほうへ行き、二人して食事を始めた。


 なんのぬくもりもない。皿に描かれた花は、いつまでも色鮮やかで、褪せることもない。いつか割れるそのときまで。


「この際だから訊こうか。きみ、なぜ、わたしと一緒になった。断るつもりはなかったのか」


 冷たい水を飲み干し、眞波は、おれを真っ直ぐにとらえた。


「ほんとうは、お見合いの相手は、方俊さんのはずだったの」


「ほう。初耳だ」


「でも、方俊さんのほうから、交友関係を理由に断られて。お見合いにすら至らずにね。その前の段階での話よ」


 もうそれ以上は、聞いてはいけない気がした。なんとしてでも、五百旗頭には、森家との縁が必要な状況があったのだ。


「ははは。きみがあまりに美人すぎるので、早々にやきもきしたんだろうな。心配になったのだろう」


 続けようと眞波が口を開きかけたタイミングにかぶせて、おれはものを言う。


「きみのことは、好きさ。とても。でもなぜだろう。わたしたちはどうしたわけか、男と女にはなりきれていない」


 テレビをつけようとリモコンに手を伸ばしかけ、そしてやめる。


「お人よしすぎるのよ、良」


「無理矢理きみをわがものにするのが、正解なのだろうか? もしそうだとしても、わたしには、できそうにない」


 眞波は自身の瞳を、おれにのぞかせようとはしなかった。


「これからどうなるか。予想もつかないわけではない。お義父さまには、ただの重荷でしかない婿だ」


 イオホテルの料理は、やはり優れたものであった。冷たいままでもじゅうぶんに美味である。


「一度会社を潰しかけて、波留から資金を調達させてもらった。あの時からもう、まったく見限られたとわかっている」


 かるく笑う。


「きみの手腕で会社は立て直せた。ふふふ。表には出せないほど、無能な社長だからな」


 こちらをうかがう眞波の瞳に翳りがあった。上目遣いで、困惑していて、言葉の探しようもないふうだ。


「森会長のうしろ盾がなけりゃ、何にもできなかった男さ。いなかで細々と、網をたぐっておけばよかった。石倉汽船が続いていたとしても、それを切り盛りできる器でもなし。潰れて、ちょうど良かったのかもしれなかった」


「どういうこと?」


「石倉汽船は、父の不始末で、潰れてしまった。おまけに、わたしを除く家族三人で心中してくれたので、ひとりになった。そこで、祖父の隠し子だった人がわたしを引き取り、いなかへ連れて戻ったのだ。その頃がいちばん幸せだったな」


 眞波は驚いてこちらを見ている。微笑みを返す。


「ところがまた、皆亡くなった。よくよくわたしは、ひとりになるようにできているらしい。それからだよ。森会長にご厄介になったのは。律叔父の娘、頼子の婚約者であったから」


 水で喉を潤す。


「頼子は行方がわからないままだった。縁談はお流れ。にもかかわらず、その後、森汽船の子会社までわたしにもたせてくださった。これがいまの石倉海運のはじまりさ。以上、何ひとつ自分の力で歩めなかった、無能な男の歴史だ」


 ナイフとフォークを、皿の端に並べて寄せた。食事はもう終わりという合図だ。


 いずれにせよ、誰も給仕などしないのだから、意味はない。しかし、それを省こうとは思わなかった。


 話が終わったと察した眞波は、おれの目を見つめるだけだった。


 ところが、何か言おうとしたそのとき。


 電話が鳴った。


 方俊からであった。

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