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回折:波蝕

 ほんのいっときのためらいが、取り返しのつかないことになる。すぐに戻るものと、迷った挙句、置いてきた一枚の写真。穏やかな幸福を切り取った瞬間。もしもあれを手元に持っていたなら。


 空は、おれの時の計算式を受け入れない。ここでは、数字だけが一切の指標なのだ。潮と自由の匂いは、手の届かぬ過去へ押しやられ、振り向いたところで何にもなりはしない。


 無機質だが、高級なものに取り囲まれたおれは初めのうちひどく嘆いた。けれども、やがて、どうにもならないものと悟り、そして諦めた。


 転居の手続きは済まされてあった。それに、知る限りあらゆる連絡先から応答がなかったせいだ。別れの言葉を留守番電話のメッセージに吹き込んで、幸福の時のすべては終わった。


 決まりきった時間に出される、栄養バランスを完璧に計算された食事。一年を通して快適に保たれた温度。


 すべては許されていた。おれはここで何をしても、権力と財力が守ってくれるのを知っていた。


 しかしそうはしなかった。ここは森行夫の手のひらの上なのだ。


 あの日連れられて行った先は、森の本宅で、その家族たちは、おれに優しく接した。


「もう苦労はしなくていいのですよ」


 森夫人は、しきりに、気を使わせないようにしていた。その子供たちも、他人を疑う必要のない立場に生まれついた者特有の鷹揚さで、おれを迎え入れた。


「ご面倒をおかけいたします」


 森行夫は笑っていた。


「そのくらい、気にしなくていい。ぼくの小遣いで、まかなえるのだよ。気にすることはない。ねえ、きみ、なんということはあるものか。楽しみが増えただけだ」


 応えるように、夫人はそれに頷く。


「確かに、加瀬さんのところで養った庶民感覚というものは、あなたに深い見識を与えてくれただろう。しかしね、あなたは、そこに染まってはいけないのだよ」


 微笑みを向ける森の目は、奥底に強い光を孕んでいた。もう、何ひとつ、おれには自由はないのだと思い知らされた。


 のびやかな田舎暮らしは、将来へのおそれをすっかりかき消し、備えらしきものも、おれのうちにはなくしてしまった。


 編入先の中学では全く成績は振るわず、一年遅れで入った高校でもひどいものだった。


 初めは期待していた周りの者たちも、やがて、関わり合おうともしなくなった。それは確かに、おれにとっての幸福ともいえるものだった。ただ、きまりの悪さはいつもつきまとい、自信を持つべきすべての根拠を失うには充分だった。


 出来の悪さに、愛想を尽かした森が、小さな船を手切れ金がわりに、おれを捨てる日がくるのではないかとさえ思った。


 ところが、森は、冴えない様子のおれを、励ましも叱りもしなかった。


 目に見える世界は狭く、海の見えない街は灰色のグラデーション。計算され尽くした公園の緑。街並みは要領の良さだけ追い求めて、人間の生きる余地はどこにもない。そこを往来する時間だけが過ぎていった。贅沢な暮らしはそのままに。


 人付き合いを好まない性分は、幸いしたのだろうか。学校と屋敷の往来だけで毎日を費やすのに不満を持つことはなかった。


 テレビドラマに見る若者らの姿は青春色。画面の外から自分を重ねて、おれはそれを満喫したつもりでいた。


 年が至ったというだけで、聞いたこともない大学に、金の力だけで滑り込まされた。


 ほどなくして、森は家族皆でおれの成人を祝う席を設けた。


「ぼくからの気持ちだよ。大変なことをたくさんくぐり抜けた、良くんの成人をどうしても祝いたくてね」


 森の長男、方俊(まさとし)は、瞳は優しく暖かく、しかしどこかに哀れみの色をもっていた。森家の人々は、同じ目でおれを見ている。


 終始和やかな雰囲気のテーブルでは、男同士の話だ、と方俊は親しく話しかけてくる。


 傾けるグラスに映り込んだ自分の影が不意にゆがみ、顔も思い出せなくなった剛の輪郭と重なった。


 その時、はたと気づいた。すべては森の思い通りになったのだと。


 石倉という家。ここを滅ぼすにはどうすればいいかを、おれは考えた。


 牙を抜き、力をなくさせるには、おれのようにしてしまえばいい。すっかり腑抜けになった石倉良には、森汽船のトップとしても、ましてそれを凌ぐ器量もない。


 野心の持ちかたも忘れて、毎日の安穏な暮らしにとどまっていくだけの人生。財を持ちながらも、いつか田舎で小さな船に乗り、ささやかに生きることなどを夢だと言うような男。


 頼りない学歴と、能力の低さと、お人好しの具合が、ぬるま湯の中でうまく醸成されて、森の希望通りに仕上がった。


 次代から突き崩そうと画策した、山中と橋田のやり方の粗さ。かれらのほうこそ、甘かったのだ。


 ただ、森は知らなかった。そもそも何の野望もなく、おとなしく、不自由なく過ごす。それだけが、子どもの頃からのおれの願いだったとは……。

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