捨石・2
「なにごとですか」
困惑はお互いさまで、こんなとき、妙におれの香水は、体温の高まりで華やかにひらくのだった。
「あ。おとうさん。どうしてここに入ってきているんですかねえ」
年かさの男は、いかにも、熟練の者といったふうだ。作り笑いは、まるで、長年近所に住む馴染みの人、といった色をたたえている。もう一人の若い警官は、こわばった表情のままだ。
「それはわたしの台詞ですね。ひとさまの家に断りなく上がって、どうしてもこうしてもないでしょう」
「通報があったからだ!」
若いほうが大喝する。
「少し早く帰ってきたら通報されるのか」
おれは目を閉じ、ため息をつく。
「わたしは石倉良。ここの家の持ち主です」
上着の胸のあたりを開いて、そこからカードケースを取り出した。
「さあご覧なさい。住所もここだし、顔も同じでしょう」
免許証を差し出して見せると、二人とも顔色が変わった。
「どういうことなのか、訳を聞きたいのですが、答えていただけますね」
「……ですから。知らない人が鍵を開けて勝手に……」
庭先で、中年の女性がしどろもどろに説明している。気が動転しているのか、声のボリュームは大きい。
「本当に、ここのご主人ではないんですね」
「ええ。違いますとも。全然別な人がいたから、わたしは、見つからないように逃げて、警察に電話したんじゃないですか」
おれは庭のほうを向いていた。それから、室内の二人に視線を投げた。
「なるほどね。この様子では、わたしが直接言ってもはじまらない。あなたがたから、わたしを石倉だと、ここの者だと伝えた上で、お引き取りください。何かつまらぬ誤解がある」
二人は、決まりの悪そうな、はっきりしない返事をして外へ出た。
「どうして。どうして捕まえないの。おかしいでしょう」
中年女性の慌てた声がする。
「わたしはここの家政婦なんだから、わかるの。あの人は旦那さまじゃないって。あんな様子の人ではない」
おれは外に出た。そして、あたりにいる警官や通行人、野次馬に聞こえるように、手を叩いた。皆、はたとこちらを向く。
「よくやりました。実に素晴らしい。少しでも不審なことがあったら、ためらいなく通報するようにと、家内を通じて言付けたのはわたしです。恥ずかしながら、わたし、美容室へ行って髪型を変えたものですから、見間違えたのも無理はありません。皆さま、お騒がせいたしました」
乾いた笑い。隠し切ったため息。無風の午後。興味を失った、輝きのない、ギャラリーの瞳。寒空に立つ理由も消えて、ドラマは始まる前に終わった。
皆がいなくなって残るのは家政婦の山本とおれだけ。二人にとっては、これからが本当の舞台になるのだ。
「ためらわず、よく通報しました。いい対応でした。寒いでしょう。中でお茶でも飲んで落ち着きましょう」
山本の表情は引きつっている。先に、中へ入るよう促した。
サーバーの湯を注いで紅茶を淹れたのは、おれ。リビングの椅子に、真向かいで腰掛ける。そこでおれは、免許証を山本に見せた。
しんと静まり返って、冷蔵庫のモーターまで聞き取れる。通りから子供の声がし始めた。翳る、冬の天体の動き。弱々しい、サッシのわきの光。
「申し訳ございませんでした」
山本は青い顔をして泣きそうになっている。
「知らない男の姿があって、しっかり確かめようなどとしていたら、間が悪ければあなたが犠牲になってしまいます。あれはあれでいいのです。今回の件は仕方がありませんし、わたしにしても、なかったことにしたいのですよ」
おれをまっすぐに見つめるのが、ひどく辛いのだろう。うつむいて動かない。
「家政婦派遣元にも、家内にも、ましてあなたの周りにも、今日のことは決して言わないでおいてください」
おずおずと上目遣いになるのを、見逃すわけにはいかない。ここぞとばかりに視線をとらえて、のぞき込む。
「あなたの仕事はなくなったりしません。今まで通りでいいのです」
「本当に、いいのですか」
「ええ。さあ、紅茶でも飲んで落ち着いてください」
ありがとうございます、と震え声で返した答え。
「ここで、わたしではない何者かが、まるで石倉本人のように過ごしていたというのですね」
不意の質問に、山本は竦みあがった。
「さっき話が聞こえましてね。山本さん」
何を言うべきかわからず、向かい合わせのまま、ひたすらに目を泳がせ悩み抜いている。
「あなたが漏らしたとは決して悟らせない。理由もしっかり用意できます。その男は、何時ごろ、ここへやってくるのですか。一人ですか。それとも誰かとですか」
うつむいて、言葉を探している。おれは急かさない。
「答えられないのですね。家内に気を遣っているわけですか」
「すみません。許してください。申し訳ございません」
表情を隠すように、下を向いているのが、悲痛ともいえた。
「確かにそうするのもわかります。なにも、あなたが憎いわけではありません。ですから、これ以上は追求しません。ただ、わたしがこの状況を把握している、と悟られないようにする。これだけは守ってください。わたしにも面子があるのですから」
ひたすらに山本は詫びつづけた。
「もう退勤時間になっているでしょう。引き止めてしまいましたね。これからも変わらず頼みますよ」
冷めていく紅茶に、逆さまの内装。赤褐色の水鏡には、おれのいない幸福の時が映し出される。
「遠目にもすぐに別のかただと思えるくらいには、見た目が違いました。早いときでも、わたしとほとんど入れ替わりぐらいにしか、おみえになりませんでした。あなた、と呼びかけていらっしゃるところをみて、旦那さまと思っていました」
去り際に、独りごちるように言葉を残す。
「待って。よく言ってくれました。なんでもいい。困ったことがあったら、すぐにわたしに一報ください」
互いの連絡先を登録しあった後、淡々と山本は帰っていった。
一人きり、黙ったままの時計。傾いていく陽と、部屋の隅の暗がりに消えた、誰かの団欒。
あらかじめ買ってきていたオードブルをテーブルに広げ、静けさのなかで早めの夕食を摂り始めた。隙のない味付けの、冷め切った料理。アルコールではなく、自分で淹れた茶を冷ましながら飲む。
そのとき、おれのスマートフォンが鳴った。メッセージは、雄浦常務からのものだ。
「例の件を含め、一度お時間をいただきたく……」
それはきっと、秘書室長、三好のことについてだろう。直近の常務の都合の良い日に合わせます、とだけ返事をしておいた。
どのみち、いつだって、予定などないのだ。
傾けた湯呑みの色合いのせいで、茶は濁って見え、天井の光源も底に沈んでしまう。
オードブルは一向になくならない。どれだけものを口に運んでも味らしい味がしない。
未来へ向かおうとすると、いつもこうなる。誰もいない部屋。時の機構は意味をなさない、ただの数字と針の動き。
板挟みに苦しむ、山本の表情が浮かんでは消える。
また、だ。この家には、おれ以外の幸福しかない。
ここを選んだのは、本当にわずかな間しか過ごさなかった、加瀬や、るみたちのいた家に似ていたからだ。実際にもう一度確かめることができたならば、違うのかもしれないが、時の流れが許してくれない。道路の通りかたも、区画ごと、あれからどうなったかもわからない。はっきりした住所も思い出せない。
おれは、何もかもあの日に置き去りにしたまま進めない。取りに帰る術もない、明日への途……。




