回折:酷暑の夢・1
陽炎のかなた、見返す二つの瞳がある。まっすぐに伸びた一本の道を眺めて立ち尽くす。
不可思議に揺らいだ、もう一つの世界との継ぎ目のような場所。さっき、たしかにそこだ、と思った地点に至ると、さらに向こうへと離れていってしまう。
諦めて、元来た道へ戻り始めると、自転車が二、三台、連れ立って走り抜けていった。
夏の陽光に負けじと輝く、子どもそのものの生命がまぶしい。かれらが通り過ぎたあと、暑さにか、草はうなだれる。
道沿いの、見知らぬ家の外壁は白く、南中に近づきつつある太陽の光を享けて、まばゆさが世界の姿を隠してしまうのだった。
平野は恐るべき距離をもって広がり続け、果てのないさまで、おれの前にはだかる。
水蒸気は夏の形状で、空の端から一切を囲んで閉じ込める白い檻。
誰一人すれ違いもしない、遅い午前。少しだけなだらかな起伏が道に現れ始め、坂めいた角度が足裏に伝わる。
そびえる立木の一本が、おれにいつも不安の彩りをみせる。このあたりから私有地が始まるのだ。生垣と煉瓦が行き止まりを示す。おれは呼び鈴を押す、と、インターホンから返事が聞こえた。それから扉を開け敷地へ入る。車の通る平らな、舗装された道。砂利の先の緑は、刈ってまもなくか、青草の匂い。
ガレージの内側には、運転手がたむろする場所がある。今は車が出払って誰もいない。使用人たちは、各々の仕事を口実に、子どもでしかないおれを無視する。
自室へ戻ると、窓からは、古い石積みの塀の裏側や、別棟が見えた。
おれは手にしていた書道用のバッグを一旦机に置く。墨の匂いが少しも自分をくつろがせないと今更気づいて、目を閉じて立ち尽くす。半紙の上の黒色は、才能のなさが落とした、ただの染み。その時はまっすぐ書いたつもりが、どうしても中心が歪んでいるのだ。こればかりはいつまでたっても治らない。致命的ともいえる欠点だ。
もう、書道教室では手を入れることもなくなってきた。いっそ、やめろと言われたほうがまだましだった。これもビジネスであるから、向こうから告げるのは、よほどの迷惑行為に及んだときぐらいだろう。
先生の目はいつも冷たい。初めからそうだったわけではない。ある時突然に、屋敷へ、書道教室の使いと名乗る者がやってきた。わざわざおれの母親まで呼んで話をしたのだが、内容は、まったく書道と関係がないものだった。子どもらしさを育むために、教室の生徒へ、人形劇を観る会に入るよう、勧めてまわっているという。無論、即座に断った。
その後、教室では、ひどくなじられた。わざわざ、ひとに頼んでまで行ってもらったのに、と。おれは何も答えなかった。他の生徒がどうしたか知る由もないが、明らかにおれへのあたりがきつくなったのは事実だった。
時間の経過は、物事を解決しないどころか、さらに悪くした。新しく入った同じ年齢の子が、先生の好む類だったのである。大人が望む子どものあり方、というものを実によくわかっていた。そのとおり振る舞って、しかも作為をさとらせないのだ。明朗で、素直で、感情がゆたかで……ふた昔以上前の、子どもの役どころを、見事に演じきっていた。
「きっとこの子は、いろいろな経験をして、人間的に成長するでしょうね。石倉くんのように、あまり裕福すぎるお家に生まれて、ずっと何の苦労もなく、ぼんやりと生きるようなことにはならないでしょう」
おれはそのとき、衣服が墨で汚れないように、スモックを着ていた。それを指してなおも言ったのだ。
「大体、この服も、すごく価値のある絣で出来ているのよ。子どもが汚れよけに使うようなものではないの。贅沢すぎるのよ」
蔵の中で眠っていた、古い着物。捨てるぐらいならと、汚れのないところを見繕って、年のいった使用人が片手間で作ったものだった。おれは反論もせずそのままにしておいた。相手にする必要などないとわかっていたからだ。
一戸建ての一部分を改装した場所が、書道教室だった。この造りは、決して粗末なものではない。通ってくる生徒もそれなりに富裕層の家の子ばかりである。理解ある家族が、この人のために用意したに違いない。なんの不満を抱え、年端もゆかぬおれへ、つらく当たるのか。あまりにくだらないので、まったくそうした嫌味を無視していると、先生は、だめだと言うだけで、添削すらしなくなってきた。おれはこのことを親に言おうとしたが、機会すらなくそのままにしている。教室を辞めて、空いた時間に、さらにつまらない習い事を入れられるほうが、よほど困る。疲れるだけなのだから。
ただ、おれは、筆を持って紙へあてるその一瞬、ためらうようになってきた。はじめの点、そこで間違えてしまえば、もう取り返しがつかない。慎重さがおれの手を震えさせるのだ。
どこかにかびの匂いを含んだ書道バッグを、机の脇の棚にしまって、体をベッドに投げ出した。
蝉の声は喧しく、祭りの日のごとく夏を囃し立て、命の勢いが頂点に達する刻へ急かす。鮮やかさを極める、窓の外の緑。そこに潜む、様々なものを見るも見えず、おれは肌寒いほどクーラーの効いた部屋に居る。
青々と茂る草の刈られた跡に、陽光は行き渡り染み込み、熱はなにものをも逃さない。
高台の家から望むかなたに、不可視の海の気配を探し、行き詰まった平野の終わる場所を求める。いつの日か、おれを取り巻く一切がなくなり、輝く水と真正面に向き合う日が来たなら、どれほど胸のすくことだろう。
乾ききった大地には、人の影さえない。誰もがどこかへ逃げ込んで、生命の蒸発を避けている。ほんのひととき、おれに許された憩い。それがいつ、不意に打ち切られてしまうのか。おれはいつも、自分のものではない時計の上に立たされて、針で押されているような心持ちでいた。
天体の運行を、窓枠のさきに見て、いま、このときの少し長からんことばかりを祈る……。
おれには休みなどなかった。空き時間を作ることは、まるで悪事を働いているかのようにとらえられていた。学校が終われば、分刻みで動かなくてはならない。
時間より早く運転手が呼びに来て、おれを塾に連れて行く。あるいは家庭教師が待ち構えている。送り迎えがないのは、唯一、書道教室のときだけだ。例の先生が、子どもなのに、車で往き来させるのは贅沢すぎる、と近隣につまらぬ話をしてまわり、親は世間体を気にした。それだけの理由だった。