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捨石・1

 いつまでも、たどり着けない戻り道。出て行ったきり、帰るところを見失い、振り返っても暗い崖。


 車窓のかなたには、何年も放置されたままであろう工事現場。端の、あの立ち木のように、切り立った時の岬に立ち尽くして、崩れゆく過去に追われるようにして生きてきた。明日しかないといってしまえば、どこか希みがあるふうにも聞こえるが、それは、昨日とつながりがある人だけのおとぎ話なのだ。


 昼下がりの高速道路には、働く人の横顔。今日の仕事を捨てて車を走らせる。夜とはまったく違う静けさが、インターチェンジを降りたところにはあった。見知らぬ近隣の人々の群れを確かめながら、ナビの通りに角を曲がっていく。おれがしなくてはならないことは、切り角を間違えずに、この狭い入り口へ車を入れるだけ。


 冬色の空からこぼれ落ちる午後の光線。誰の気配もしない両隣。この幸福を維持するために働きに出かけているのだ。表札はすぐにはわからず、おれは何者のそばに住居を構えるのか。この徹底した無関心は、身上を隠すのにうってつけなのだけれど……。


 鍵を開ける。出迎えるのはいつもの冷たさではない。そこかしこに人の気配が残っている。耳をそば立てるも、つかめるものはない。


 リビングまで行くと、畳まれたナイトガウンがソファーにあり、いつでもここでくつろげるような支度が出来上がっていた。何もかもに人の手が入っている。淡い色のカーテンはいつも閉められてあるが、透けて差し込む昼の光線に、前のオーナーの幸福の痕跡らしきものを見つける。一家に巡ってきた機会をつかみ、かれらはさらに階段を上っていったのだ。


 ソファーに腰を下ろし、マガジンラックから取り出したのは、インテリアや建築について取り上げてある雑誌だった。


 あらゆる機能美にまつわる情報が特集されていて、地下室の使いかたが提案してあった。良いオーディオ、本革のソファー、モダンな雰囲気を壊さぬよう合わせたラグ。一分の隙もなく美しい。


 だが、どこか寒々としている。


 都会色。聞こえはいいが、どこにも生身の人間が入りこむ隙がない。そこに足を踏み入れるなり、完璧な調和はすぐに崩れ、全てが場違いになりそうだ。一人きりそこにいて、熱すら放たぬ無機物を気取るなら、ちょうど良いのだろう。格好をつけすぎて滑稽なことも、見るものさえなければ問題はない。ますます人間の幸福そのものから隔絶され、美しさとやらにはまり込んで自分を忘れる。


 鏡を置くことの許されぬ部屋。


 どこかおれに似合いそうだ、と嘲るのは、いつか平凡の中にいた少年時代のおれ自身。


「上等の背広。高級車。都会のど真ん中で誰にも引けを取らぬ財力。望まないふりをしているだけの、与えられた権力。思いのままにできるくせに、取り繕って、それを行使しない……嘘で塗り固めた善人面」


 むかしのおれは、いつまでたっても心の影に潜み、いまのおれを嗤う。


「競って敗れる。そのことが恐ろしいばかりに、不戦敗を選び続ける臆病さ」


 海と太陽の道のかなたから、おれのずるさを一つ残らず確かめている。


 年齢を重ねて、言い訳ばかり上手くなり、逃げる手口も巧妙になっていく自分の顔を、ガラスのテーブルは映し出していた。


「だからこそここへ来たんじゃないか」


 向き合いたくない一番の相手と、真正面からやりとりをするために。


 もう一度築き直すのか。それとも崩してしまうのか。


 あの日海岸で見た、建設予定の木の看板が、潮風に朽ちていったような、そうした時間にピリオドを打たなければならない。きっと、整った他の字より一段と醜く、あるいは滲み、掠れ、ひどく見苦しいものになったとしても。


 一旦雑誌を閉じ、テレビをつけた。古い再放送のドラマが流れていて、現在ではどこにも残っていない、独特の時代感に満ち溢れた街並みが写っている。サスペンスドラマなのか、血相を変えた男がパトカーに乗り込み、何かを追い始めた。わざとらしくアップで撮られた赤色灯。不自然なエコー。緊急走行する車両を、驚きの表情で見送る通行人たち。


 こうしてみれば、滑稽なものだ。我と我が身に降りかかったものでないと知るや否や、そのかまびすしさを、意識して捉えなくなる。


 たとえば、通報した人間だったならば、待ち焦がれているに違いないだろう。近づいてくるサイレンに、どこか安らぎさえ見いだすことだってあるはずなのだ。


 画面を切り替わりコマーシャル。身の回りは、よく知るものに囲まれているのではない。馴染んでいると、思わされているだけ。その繰り返しだ……。


 玄関周りが騒がしい。カーテンの向こうの人影。おれは身構える。誰かがサッシに手をかける。


 この部屋に至るまで、鍵をかけたか?


 思い出せずに立ち上がる。人の足音が廊下を走った。追おうとしてやめる。濃紺の人影が庭に増えた。玄関のドアが開く音。女の声が聞こえる。そこで初めて俺は玄関へ向かおうとする。その前に少しうるさく感じたテレビの電源を切って。


 夕刻に近づきつつある午後。住宅街にそぐわない、異様な雰囲気。さっきまでの、ミステリーものの世界が、こちらに染み出してきて、混じる……。


 リモコンを置いて振り向くと、警察官が立っていた。

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