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回折:海よ・5

 頭上には空があった。それまでと何一つ変わらないはずだったのに。雲の位置は、昨日の表情を思い返すのも難しいほどに違っていた。


 頼るさきを全て一気になくした加瀬老夫人は倒れ、病院に運ばれた。


 近所の人は善良だった。様子を見に来る海苔師とその身内たちは、ひとりでいるおれに、差し入れをくれた。


「大変だろうけど、気をしっかりね。おばあちゃんのお見舞いに行くときは、車出すから、言ってね」


「海苔のことは、皆で手分けして、どうにかしようと決めたから、心配しなくていい」


「海苔漁も中断することになったりして、すみません。ご面倒をおかけいたします」


「そう言いなさんな、気の毒に思いこそすれ。誰も、文句を言う者なんかいないよ」


「ありがとうございます」


 ドアが閉まる。


 鍵をかけようとしたときだった。出たばかりの二人が、話をしているのを聞いてしまった。


「かわいそうになあ。史さんの奥さんも流産したとか」


 おれは息を呑んだ。


 加瀬史はなにも遺せないままだったのだ。


 新しく宿った命は、この世の光を見なかったというのか。


「ショックどころじゃないね。目も当てられない。それに、あの子は、遠縁の人だというでしょう? 戻るところなんて、ないでしょうに」


「施設に引き取られるのかな」


「おばあちゃん一人では、難しいものね……」


 ひとりきり。またあの日とおなじ。差し込む陽の中に踊る塵を、ぼんやり眺めるしかない。


 おれは、まだ優しかった頃の加瀬の姿を思い出してみた。


 別棟で、下手に焼いて弾けてしまったウィンナーを、二人でぶつくさ言いながらつまんだときの笑顔……。


 震える手で電話をかけてみたさきは、加瀬の自宅。当たり前のことだが、出る人はいなかった。るみはきっと、その母の実家にでもいるのだろう。おれには知る手立てもないそのゆくえ。最後に会ったのは、いつだったっけ……。


 目を閉じて、ため息をつく。


 電話機の裏に貼り付けてあった番号は、光に当たらなかったせいで、きれいに読み取れた。もうここにかけるしかなかった。


 ワンコールでつながった。


「森さんの、お電話ですね」


「お名前とご用件をどうぞ」


 見知らぬ男の声だった。


 どうやらこの様子では、こちらからの問いかけには、答えてくれそうにもない。


「ぼくは、石倉良といいます。緊急時には、この番号にかけるようにと言われていました。森行夫さんにお伝えください。加瀬史弁護士が、亡くなりました。それも普通の亡くなりかたではありませんでした、と」


「石倉良さん。ご住所とお電話番号をどうぞ」


 おれは、加瀬老人のこの家の情報を伝えた。


「よろしくお伝えください。失礼します」


 受話器を置く。壁にもたれかかり、そのまま座り込む。


 時化と、潮の干満。それを考えれば、二人がその時間、海に落ちるはずはない。誰も船を出せる状況ではなかったのだから、そうしたところにいるのも不自然なのだ。二人で言い合いになるとわかっていて、人のいない場所を選んだ、きっとそうした理由に落ち着き、事故として処理されてしまうのだろう。


 おれはよろよろと立ち上がり、二階の部屋へ向かう。 


 幸福の残り香を探し、窓から望む平野。


 広がる大地に、実りを刈り取られたあとの田畑がみとめられ、黒い旗が風にたなびく。


 喪の色味に紛した姿形の鳥が、乏しい食料を求め、草むらの隅をついばむ。


 離れたところにあがる煙は、禁じられているはずの、野焼きのもの。


 その出所は、あぜ道の脇の斜面。次の災いの元を始末するために、風向きを測りながら火をつけていく人。


 刻一刻と、夕闇に覆われゆく部屋の隅。黄昏のもたらす暗がりに、るみとあの日歩いた海辺の光景を記憶から引っ張り出して投げかけてみる。


 ついこの間、同じところを、加瀬老人と通ったばかりだった。


 満ち潮が、光でおれの未来を潮目に描き、輝ける明日へ渡らせた。


 かたや、干き潮というのに、罠のように、水底のもっと下へ引きずり込もうとしていた、歩けそうな、潟の道。


 通る人もいないのは、そこで鬼籍に入る羽目に陥った誰かの、血の標が、立ち入るのを許さないからだ。


 神域の島は遠く霞んだかなたにあり続けてはいても、決して、おれの前に開かれてはいない。この世の幸福といわれるものを全てつかんだとしても、おれにだけはその姿を現すまい。


 辺りじゅうの家に、それぞれの明かりがともされ、平凡の星が瞬く。


 早くも陽は暮れゆく。おれの影も、つけ損ねの照明の下で夜に溶ける。しんしんと冷える真冬にたたずみ、風の唸りに、干拓の水門の向こうでせき止められた、渦巻く海の声を聞く。


「ぼくの帰るところは、この家だよ……ただいまと言って入るのだと、おじいさまがおっしゃったもの……」


 明日になれば、みんな元通りになっているのではないか……?


 なにもかも間違いで、すっかり騙されたおれを笑ってくれたら、どんなにかいいだろう。


 悪い夢を見たのだと。



 それから二日もせず、森行夫の使いという者が、この家を訪ねて来た。


 おれは、森がんでいるというので、特段周りの誰にも言わず、書き置きだけを残して出て行った。


 すぐに戻るつもりだった。


 戻るところは、ここしか、ないのだから……。

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