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回折:海よ・4

 潮が引いていた。いつもは人の目に触れぬところにあるはずのものは、すべて露わになり、冬らしく翳った空の下にうごめいている。


 車から降りて、おれのそばに立つ老人の顔。隠し通す心づもりで、やりすごした時間。黙ったままの、他人の知らない真実。言い訳のない歳月が、眼前で明らかになった水底に描く水の跡のように、かれの肌を彫琢していた。


 防波堤の影になったあたりは、どうやってもここから見えない。あの頃、毎週のように、加瀬とおれの乗った船は、その向こうをすぎて、川になりかけのような区画につけていたものだった……。


 半端時化は、沖合に白波を立てて、おれのそう遠くない幸福のうしろ影すらも、そこに思い描くことを許してくれそうになかった。


 海苔漁の支柱は、海底の浅くなるぎりぎりまで立ててあった。しかしこの潮の具合では、到底、明日になっても、船で行き来はできないだろう。


 無言のまま対岸のあたりをじっと見つめる加瀬老人は、おもむろに、海の中にある鳥居のほうへ歩き始めた。至るところで刃物のように鋭くとがった貝殻が足元にみとめられるも、サンダルなどでない限り、怪我の心配はせずに済む。


 鳥居は、干潮のさなかで、ひとつの道筋を露わにしていた。神様の島へとつながるそれだ。あの頃、加瀬も、船から遠巻きに確かめるだけで、決して必要以上に近づこうとしなかったのを覚えている。


 ただそこを、人間が歩むことはできない。海が広がっているせいだ。


 この鳥居のすぐ脇へ進むと、防波堤とは違う、車一台ほどは通れそうな道路が現れた。


 等間隔に建てられた電柱。どこかへ続く、どこにでもありそうな、まっすぐな道。間近に波が寄せ、水の音が聞こえる。潮は少しずつ満ちてきていたのだ。


 遮るものはなく、海からの吹きさらしの真冬。厚い雲の裏、薄ぼんやりの太陽は遠い。その光の腕は差し伸べられておらず、磯の匂いがおれの体の上を這い回る。風に砕かれた海のかけらが、寒さと一緒に張り付いていく。ちょうど乾いていく涙のように。


 鈍色の空と海のあいだを、おれはゆっくり歩いた。いつまでも続くかと思えたとき、それは唐突に終わった。見えていたはずの向こう岸は、違えてしまった方角のかなたへ去り行き、海はおれの道を閉ざした。


 このまま、何もかも、涙の流しかたさえも忘れてしまいそうだったのに。


 あの真夏の揺らめくまぼろしのように、追いかけることも許されていない。近づけば離れ、振り向けばそこにある、やさしい嘘と慰めすら、もうおれには残されていない。


 ふたりの行き場をなくしていく波の姿を見つめる老人の表情からは、何も読み取れなかった。


 しかし、つぶやくように、語りかけた……いや、独りごちていただけなのかもしれない。


「二、三日したら、史と話をする。あの男め、また道を踏み外そうとしている。おれが止める。選挙や政治のこととなると、人が変わったようになる。真人間に戻さなくてはならん……」


 剥がされたアルバムの写真。一つ残らず消された、政治家としての加瀬の足跡。誰がそうしたのか、おれにはわかった。


 満ち込むものがからだを濡らさぬよう、おれたちはゆっくりと後退り、そして、ある程度のところで踵を返した。


 もう海のかなたへは行けない。わかっていた。けれどもおれは振り向いた。何かの間違いのように、この道が、望み通りのどこかへつながっていくのではないかと願いながら。


 だがそれは叶わぬことだった。奇跡はもう起こらない。既にそれを手にしてしまったものに、再びという機会は与えられないのだろう。戻っていくしかない。凍てつく風は、おれの来た道を、潮を巻き上げて覆った。


 数日後、加瀬史と老人の遺体が海から上がった。


 寒い、時化の夜のことだった。

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