表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/106

回折:海よ・3

 崖を囲うように渡された、支柱と支柱の間の縄に、紙垂しでが揺れる。


 風は旗を翻らせ、そのやしろの名を明らかにして、背景の空は青。敷き詰められた砂利の道を過ぎて、加瀬老人と二人、作法通り参拝を行う。


 閉じた目の奥には何もない。ただその間際に見た、社の内側の丸い鏡が、瞼の裏で、自然にそこから輝きを放っているだけだった。


 ふと我に返ると、加瀬老人はすでにその場を離れており、ベンチに腰を下ろしていた。


 藁で編まれたしめ縄の形は、この土地特有の飾り方。垂れ下がった両端のささくれまでもが大きく見え、社自体、時の流れに染めあげられていた。


 ここからは海すら見えなかった。眼下に漠と広がる平野には、田畑と人間の営みが連なり続け、端は淡く霞んで、これ以上追いかけることはできない。山の上から望んだとしても、把握できるのは、この程度だった。


「海の神様なのに、どうして山の上にいらっしゃるんでしょう」


「海を見ていなさるのよ」


 陸の終わるそのとき、たちあらわれる、青の世界。どこからか押し寄せてやまぬ波。


 もしかすると、海を、そのかなたを、眺めながら、()()()いるのではないか……。


「こういうところで海苔の豊作を祈るというのも不思議なんだろう? 海苔は、陸からの水と海とが混じり合うところで実る。どっちも必要だ」


 真冬にも青々と繁る木々に飾られた山の斜面を眺めながら、加瀬老人は、しみじみと独りごちた。


おかでの作業だって大事だ。良はもう、海苔師といっていい。網の手入れもする、黙って機械の掃除もする。おれは神様にお願いしたからな。ゆくゆくは、きっとお前の船がいくつも海を行き交うようになる。社長になるに違いない。その時、お前が海に出ていたら、いざという場合、どうにもならないだろう。高いところから、全部を見ていなきゃならん。わかるか」


 おれはうなずいた。鳥がどこからかやってきて境内に止まり、すぐに飛び立っていった。


「お前なあ。親のことを尋ねられたら、どうする」


 陸のずっと向こうに、空から淡い灰色の帯がかかるのを見た。


「亡くなった、と素直に言います」


 おれのほうへ向き直ると、そのまなざしに、潤んだ影があった。


「お前は海の神様の子どもだと思え。なにがあっても、決して、まったくの独りぼっちではない。お前の身内が、一心に、跡継ぎが授かるようにと、この神様に祈ったら、お前ができたと聞いた。だから、きっとそうに違いない」


 どこからともなく吹いた一陣。間近の木々も、葉のまばらになった枝を揺らし、紙垂と紙垂との間を、季節そのものが風のかたちで走り抜けていく。


 手水舎の水は流れつづけ、いつかは海へ向かおうとして、ここの土へ染み込む。


 誰もが行き来するためにできた土のくぼみには、水たまりができていた。そこへ逆さに映り込み、ゆがんだおれの顔は、あるひとつの面影に近づく。


 あの頃の頼子がちらつく。


 なぜおれに、跡継ぎが知るべきだという、封のやりかたを教えたのだろう。不出来の弟、つよしをうまく操るほうが、もっと簡単だったはずなのに。


 そして、なぜそれを、頼子が知っていたのだろうか……。


「おじいさま。そんなことを祈ったのは、誰なんです? 跡継ぎが授かるようにと……」


 砂利が音をたてた。急な傾斜をのぼって、敷地に車が入ってきたのだ。


 おれは息をのんだ。スーツに身を包み、早くも政治家の顔をした加瀬かせ(ふひと)が、後部座席から降りてきたせいだ。そして、かれの取り巻きのような人物たちも、次から次に集まってきた。


「行くぞ、良」


 加瀬老人のひと言に逆らう余地はなかった。


 外の気配を察知したのか、社務所の奥から音がして、神職らしき人の影がみとめられた。


 ただ、加瀬はおれたちのほうを見ようともしなかった。


 冷たい風が吹きつけてきた。空には時化の海色をした雲が流れてきた。旗はちぎれんばかりになびき、斜面の途中の草は、倒れるかたちをとった。


 もしかすると、さっきの答えを加瀬は知っているかもしれない。


 しかし、あの質問は二度とできない空気だった。


 黙りこくったまま、おれたちは元来た道を戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ