回折:海よ・3
崖を囲うように渡された、支柱と支柱の間の縄に、紙垂が揺れる。
風は旗を翻らせ、その社の名を明らかにして、背景の空は青。敷き詰められた砂利の道を過ぎて、加瀬老人と二人、作法通り参拝を行う。
閉じた目の奥には何もない。ただその間際に見た、社の内側の丸い鏡が、瞼の裏で、自然にそこから輝きを放っているだけだった。
ふと我に返ると、加瀬老人はすでにその場を離れており、ベンチに腰を下ろしていた。
藁で編まれたしめ縄の形は、この土地特有の飾り方。垂れ下がった両端のささくれまでもが大きく見え、社自体、時の流れに染めあげられていた。
ここからは海すら見えなかった。眼下に漠と広がる平野には、田畑と人間の営みが連なり続け、端は淡く霞んで、これ以上追いかけることはできない。山の上から望んだとしても、把握できるのは、この程度だった。
「海の神様なのに、どうして山の上にいらっしゃるんでしょう」
「海を見ていなさるのよ」
陸の終わるそのとき、たちあらわれる、青の世界。どこからか押し寄せてやまぬ波。
もしかすると、海を、そのかなたを、眺めながら、待っているのではないか……。
「こういうところで海苔の豊作を祈るというのも不思議なんだろう? 海苔は、陸からの水と海とが混じり合うところで実る。どっちも必要だ」
真冬にも青々と繁る木々に飾られた山の斜面を眺めながら、加瀬老人は、しみじみと独りごちた。
「陸での作業だって大事だ。良はもう、海苔師といっていい。網の手入れもする、黙って機械の掃除もする。おれは神様にお願いしたからな。ゆくゆくは、きっとお前の船がいくつも海を行き交うようになる。社長になるに違いない。その時、お前が海に出ていたら、いざという場合、どうにもならないだろう。高いところから、全部を見ていなきゃならん。わかるか」
おれはうなずいた。鳥がどこからかやってきて境内に止まり、すぐに飛び立っていった。
「お前なあ。親のことを尋ねられたら、どうする」
陸のずっと向こうに、空から淡い灰色の帯がかかるのを見た。
「亡くなった、と素直に言います」
おれのほうへ向き直ると、そのまなざしに、潤んだ影があった。
「お前は海の神様の子どもだと思え。なにがあっても、決して、まったくの独りぼっちではない。お前の身内が、一心に、跡継ぎが授かるようにと、この神様に祈ったら、お前ができたと聞いた。だから、きっとそうに違いない」
どこからともなく吹いた一陣。間近の木々も、葉のまばらになった枝を揺らし、紙垂と紙垂との間を、季節そのものが風のかたちで走り抜けていく。
手水舎の水は流れつづけ、いつかは海へ向かおうとして、ここの土へ染み込む。
誰もが行き来するためにできた土のくぼみには、水たまりができていた。そこへ逆さに映り込み、ゆがんだおれの顔は、あるひとつの面影に近づく。
あの頃の頼子がちらつく。
なぜおれに、跡継ぎが知るべきだという、封のやりかたを教えたのだろう。不出来の弟、剛をうまく操るほうが、もっと簡単だったはずなのに。
そして、なぜそれを、頼子が知っていたのだろうか……。
「おじいさま。そんなことを祈ったのは、誰なんです? 跡継ぎが授かるようにと……」
砂利が音をたてた。急な傾斜をのぼって、敷地に車が入ってきたのだ。
おれは息をのんだ。スーツに身を包み、早くも政治家の顔をした加瀬史が、後部座席から降りてきたせいだ。そして、かれの取り巻きのような人物たちも、次から次に集まってきた。
「行くぞ、良」
加瀬老人のひと言に逆らう余地はなかった。
外の気配を察知したのか、社務所の奥から音がして、神職らしき人の影がみとめられた。
ただ、加瀬はおれたちのほうを見ようともしなかった。
冷たい風が吹きつけてきた。空には時化の海色をした雲が流れてきた。旗はちぎれんばかりになびき、斜面の途中の草は、倒れるかたちをとった。
もしかすると、さっきの答えを加瀬は知っているかもしれない。
しかし、あの質問は二度とできない空気だった。
黙りこくったまま、おれたちは元来た道を戻っていった。




